第50話 王城へ人狩りに
ニコラスがタラシア邸を訪れてから、数日が過ぎていた。
王城からの返事は、まだない。
まあ、無理だとは思っていた。
想定通りだ。
夕暮れを迎えた王都は昼間の色を失い、ゆっくりと青い薄闇に包まれ始めていた。
タラシア邸の書斎にも、開け放たれた窓から淡い青の光が差し込んでいる。
窓の向こうには、青く沈み始めた空を背に王都の屋根が黒い影となって連なり、その輪郭だけがまだはっきりと見えていた。
昼間の暑さはすっかり影を潜め、窓から流れ込む風が、薄いカーテンを静かに揺らしている。
室内にはまだ灯りをつけるほどの暗さはない。
けれど、机の上の書類も、本棚に並ぶ背表紙も、すでに淡い青を帯び始めていた。
イレーネは机に向かい、アルカディアから届いた書簡に目を通していた。
王都へ戻ってから、これで二度目になる。
アルカディアでの準備は、すでに始まっている。
王都から戻る者たちの受け入れ先。
工房や倉庫の確保。
新たに必要となる住居の手配。
父の書簡によれば、いずれも順調に進んでいるらしい。
一方、兄コンラッドは今、一時的にネイモへ滞在している。
数日前には、そちらからも別に一通の書簡が届いていた。
ネイモ支店の拡張。
王都から引き揚げてくる人員や物資を受け入れるための倉庫と事務所の確保。
新たに始める民間向け海運サービスについては、ベアトリスと話を詰めているという。そこへ、王都から戻る技術者や職人たちの振り分け、アルカディアへ送る荷や船の手配まで加わっている。
兄も兄で、相当に忙しいらしい。
もっとも、コンラッドの書簡は実務報告だけでは終わっていなかった。
『父上が思いつくたびに仕事を増やしてくる』
そこまでは、いつものことだった。
『お前も大概だ。王都から人を送る、工房を移す、船を回す。ベアトリスまで面白がって話を広げるから、こっちはたまったものじゃない』
さらに最後には、
『まったく、お前たち二人は誰に似たんだ。兄を過労で殺す気なのか』
とまで書かれていた。
読んだときには、さすがのイレーネも声を上げて笑ってしまった。
失礼な話だ。
少なくとも、自分は父ほど無茶を言っているつもりはない。
『こちらのことは、すべてコンラッドに任せてある。お前は王都で、好きなようにやればいい』
いま読んでいる父の書簡には、そんなことが平然と書かれている。
『衆目の中で我が家を侮辱された以上、私も同じ決断をする。ただ無理はしすぎるな』
改めて伝えられた父ミハイルの言葉に、イレーネは小さく息を吐いた。その頼もしい後ろ盾があるからこそ、自分はこれほど自由に行動できるのだと再確認する。
文面そのものは、いつもの父らしく簡潔だった。
だが、その後に続く娘を気遣う言葉は少々長い。
きちんと食事は取っているのか。
無理をしてはいないか。
困ったことがあれば、すぐに戻ってこい。
もう、とっくに成人しているイレーネへの過保護ぶりに、思わず苦笑が漏れる。
そして、その合間からは、娘をないがしろにしたばかりか、長年王家に尽くしてきたタラシア家を侮辱した王太子への激しい怒りが、隠しきれずに滲み出している。
それは父一人の怒りではないことを、イレーネもよく分かっていた。
イレーネは最後まで読み終えると、書簡を机の上へ置いた。
父の顔を思い浮かべる。
そして今度は、ネイモで山のような仕事に追われている兄の姿が自然と浮かんできた。
――まったく、父上も。
きっとコンラッドは今頃、そんなことをぼやきながら、自分と同じ赤い髪を無造作にかき上げていることだろう。
机の上には、父から回された仕事。
イレーネが王都から送りつけた仕事。
さらにはベアトリスと始めた新しい仕事まで積み上がっているに違いない。
イレーネの口元がわずかに緩んだ。
――まあ、頑張って。兄さん。
そういえば、コンラッド兄さんも、弟のテオも、自分と同じ母譲りの赤い髪をしている。別に、赤い髪がタラシア家の特徴というわけではない。
王家に受け継がれる翡翠の瞳のように、代々現れるものでもなかった。
母ゾーイから受け継いだものだ。
イレーネは自分の髪を一房つまんだ。
青みを増していく書斎の中で、赤い髪も今は暗く沈んで見える。
母は万事のほほんとしていて、押しも弱い。
父が何か言えば、困ったように笑い、子供たちが騒いでいても、少し離れたところからニコニコしながら眺めているような人だった。
それなのに。兄も、弟も、自分も。
母の血だけは、ずいぶんと自己主張が激しいらしい。
父が嘆くわけだ。自分を溺愛するのも娘だからというだけではないのだろう。
兄弟の中で、自分だけが父と同じ琥珀の瞳を受け継いでいる。
コンラッド兄さんもテオも、瞳の色まで母と同じ水色だった。
そんな他愛のないことを考えていると、規則正しく扉を叩く音がした。
「どうぞ」
扉が開き、パウロが入ってくる。
「お嬢様。そろそろ灯りをおつけいたしましょうか」
イレーネは窓の外へ目を向けた。
いつの間にか、王都の屋根は青い薄闇の中へ溶け込みつつある。
遠くの建物では、一つ、また一つと窓に明かりが灯り始めていた。
「んー、ちょっと待って」
イレーネは窓の外を見たまま、少し考えた。
「明日の午前は何か予定があったかしら」
「いえ。午前中は空いております。午後から商会の方との面会がございます」
パウロが慇懃に答える。
「そう」
イレーネは机の上へ視線を戻した。
アルカディアでのことは、兄たちが進めてくれている。
王城からの返事も、まだ来ない。
そして、王都を離れる前にやっておきたいことは、まだいくつも残っていた。
やれることがあるなら、すぐ動く。
待つのはイレーネの気性に合わない。
こういうところは、少し祖父に似たのかもしれない。
イレーネは椅子から立ち上がった。
「なら、今から出かけるわ」
「どちらへ?」
「王城。人狩りよ」
その瞳に、夜の闇に紛れる肉食獣のような鋭い光を宿して、イレーネは不敵に微笑んだ。
「ご冗談を」
「ヘッドハンティングね。王家が我が家を切り捨てるというのなら、こちらも将来のアルカディアのために、有能な人材を根こそぎ引き抜いて来ないとね」
「かしこまりました。馬車を用意いたします」
パウロはイレーネの突飛な行動にも眉一つ動かさず、一礼して部屋から出て行った。
風がまた一つ、カーテンを揺らした。
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