第49話 かわいい人
数日後。
王城北側にある、小さな庭園は、王族の私的な区画に近いこともあり、普段から人の出入りは少ない。
夏の強い日差しも城館の白壁に遮られ、庭には涼やかで濃い影が落ちている。
時折吹き抜ける風が木々の葉を揺らし、外の息苦しい暑さを忘れさせるような心地よさがあった。
庭の隅に設けられた小さな東屋は、人目を避けて一息つくには格好の場所だった。
あれからニコラスは、何度かアレクシオスと話をしていた。
しかし、結果は芳しくない。
アルカディアへ赴き、ミハイル殿に謝罪してほしい。
ただ、それだけの話がどうしてもまとまらなかった。
言葉を変え、日を改めて話してみたものの、アレクシオスの答えは変わらない。
それどころか、昨日などはとうとう機嫌を損ねた兄に、まともに取り合ってもらえないまま執務室から追い出される始末だった。
「……私には分かりません」
東屋の椅子に腰掛けたニコラスは、疲弊しきった深いため息をついた。
向かいでは、カサンドラがいつもと変わらぬ優雅な手つきで茶を飲んでいた。
「何がですの?」
「兄上です」
「それは昔からでしょう」
ニコラスが顔を上げる。
「カサンドラ」
「冗談ですわ」
そう言って、カサンドラは何事もなかったようにカップを傾けた。
風が木々の葉を揺らし、時折、さらさらと涼しげな音を運んでくる。
遠くでは蝉が鳴いていたが、その声さえどこか遠い。
真夏の昼前とは思えないほどの静けさの中、カサンドラがカップをソーサーへ戻す繊細な音だけが、小さく響いた。
「私は、それほどおかしなことを言っているのでしょうか」
いつもより覇気のない調子で、うなだれたニコラスがつぶやく。
「いいえ」
カサンドラは迷いもせず、あっさり答えた。
「こちらが非礼を働いたのであれば、こちらから出向いて詫びる。人の道としては当然のことですわ」
「そうなのです」
ニコラスが急に顔を上げ、身を乗り出した。
「私もそう申し上げているのです。ですが兄上は、自分は王太子だからと――」
カサンドラは口元に手を添えて、くすりと笑った。
「本当に、ニコラス殿下は純粋でいらっしゃいますのね」
「……どういう意味です?」
「そのままの意味ですわ」
「褒められている気がしません」
「あら。褒めていますのよ」
ニコラスは納得しかねる顔をした。
「では、何が純粋なのです?」
「正しいことをすれば、それで誰もが納得して済むと思っていらっしゃるところですわ」
ニコラスは少し考えた。
「間違っていますか?」
「いいえ。正しいですわ」
「では――」
「でも、世の中はそれだけでは動きませんのよ」
カサンドラは再びカップへ手を伸ばした。
「ニコラス殿下。私たち西方の貴族が、なぜ王家に従っていると思われます?」
突然話が変わり、ニコラスはわずかに首を傾けた。
「なぜ、と言われましても……」
カサンドラはすぐには答えず、ゆっくりと茶を一口含み、カップをソーサーへ戻す。
「王家を慕っているからではありませんわ」
意外な一言に、ニコラスの視線がカサンドラへ向く。
「負けたからです」
ニコラスは黙った。
庭を渡る風が二人の間を抜けていった。
陽を受けた木々の葉が揺れ、その影が東屋の床をゆっくりと動いている。
「アストラ川の西側は、長いあいだ川に守られてきました。東から騎馬民族が押し寄せても、あの大河を越えてくることは容易ではなかった。私たちには、私たちなりの歴史があります。セルリア王国がエウリシアと名を変えるより、ずっと前からの誇り高き歴史が――」
カサンドラはテーブルの上で指を組んだ。
「そこへ王家が川を越えてきたのです」
「……侵略者、ということですか」
ニコラスの声から、先ほどまでの愚痴めいた響きが消え、緊張が走る。
「そう思っている者は、今でも少なくありませんわ」
カサンドラは横を向き、庭へと目を向ける。
ニコラスにはよく見えなかったが、その瞳の奥には冷徹な光が宿っていた。
強い日差しの下、よく手入れされた木々と花壇が静かに並んでいる。
王城の奥にある庭は、外の喧騒など初めから存在しないかのように穏やかだった。
「王族の方々が何人か西方の家へ降嫁されたからといって、それだけで人の心まで変わるわけではありません。血は混ざります。家同士の縁もできます。でも、歴史までなくなるわけではありませんもの」
「ですが、もう随分と昔の話でしょう」
「ええ。昔の話ですわ。たかだか百年ちょっと前の」
カサンドラはニコラスへ視線を戻した。
「王家だって、西へ進んだことを今でも忘れてはいないでしょう?」
ニコラスはすぐには答えられなかった。
手にしたカップへ視線を落とし、しばらく考えてから、小さく頷く。
「……ええ」
「同じです」
カサンドラは穏やかに微笑んだ。
「私たちも、忘れてはいないのです」
ニコラスは黙ったまま、カップを口へ運んだ。
先ほどまでほとんど減っていなかった茶を一口飲み、そのまま何かを考えるように庭へ目を向ける。
カサンドラは何も言わずに待った。
やがて、ニコラスがカップを置いた。
「では、兄上がアルカディアまで赴いてタラシア公に謝罪すれば、西方では、王家がタラシア家に屈したと受け取られる可能性がある、と?」
「そう受け取る者もいるでしょうね。特に、王家の力を侮ろうとする不穏分子にとっては絶好の口実になりますわ」
「だから兄上は……」
「さて、それは私には分かりませんわ」
「分からない?」
「アレクシオス殿下がそこまでお考えになっているのか、それとも単に頭を下げるのがお嫌なのか。ご本人にお尋ねくださいな」
ニコラスはしばらく黙っていた。
「……後者のような気がします」
「あら」
カサンドラが面白そうに口元に手を添えた。
「それを私に言ってよろしいのです?」
「忘れてください」
「では、貸し一つですわね」
ニコラスは顔をしかめて、一瞬黙った。
「……忘れてくださるのでは?」
「それとこれとは別ですわ」
カサンドラは楽しそうに茶を口へ運んだ。
ニコラスもつられるように自分のカップへ手を伸ばす。
一口飲んだあとも、しばらく何かを考えているようだった。
「しかし、それならなおさら、きちんと話をする必要があるのではありませんか」
カサンドラの手が止まった。
ニコラスはカップを置き、正面のカサンドラを見る。
その真っ直ぐな瞳には、微塵の曇りもなかった。
「西方にそのような思いが残っているのであれば、王家もそれを知るべきです。誤解があるなら解けばいい。問題があるなら、どうすればよいのか話し合えばいいでしょう」
本当に、この人は。
カサンドラは何も言わず、目の前の青年を見つめた。
知らないだけなのだ。
知らないことを教えれば、きちんと聞く。聞いたうえで、自分で考える。
そして、自分の立場だけではなく、相手がどう思っているのかまで考える。
そのうえで出てくる答えが、これである。
王族としては純粋過ぎるのかもしれないが、人の話をよく聞く、この年下の王子にとっては決して悪いことではない。
「……何か?」
「いえ」
カサンドラは小さく笑った。胸の奥が、ほんのりと温かくなるのを感じながら。
「そういうところが、かわいいと思いまして」
ニコラスが目を瞬かせた。
「私が、ですか?」
「ええ」
ニコラスはしばらくカサンドラの顔を見つめた。
「かわいいのは、あなたの方では?」
今度はカサンドラが目を瞬かせる。
ニコラスは大真面目だった。幼い頃からの長い付き合いだ。からかう意図など一切なく、心からの言葉だと言うのが嫌でも分かった。
「いえ。カサンドラには、かわいいより、きれいと言うべきでしょうか」
「……ニコラス殿下」
「はい」
「そういうところですわ」
「何がです?」
カサンドラは答えず、口元に手を添えた。耳がわずかに赤い。
どうやら本人には、自分の言葉がどれほどの威力を持っているのか、まるで分かっていないらしい。
「カサンドラ?」
「何でもありませんわ」
カサンドラは、ふいと庭へ目を向けた。
やはり、一つ年下のこの王子はかわいい。
少なくとも、自分勝手で威張ってばかりの、どこぞの王太子よりは、ずっと。
……そして、質が悪い。
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