第48話 食い違う理屈
帰りの馬車に乗り込む頃には、来たときの重苦しさはすっかり消えていた。
まだ昼前だというのに、突き刺さるような夏の日差しはこれでもかとばかりに王都の石畳を照りつけ、その上には陽炎がゆらゆらと揺らめいていた。
やがて馬車が走り出す。
張り詰めていたものがほどけ、ニコラスはゆっくりと座席の背に体を預けた。
思っていたより、ずっと話は簡単だった。
王家として、今後の立場を保証する。
兄がアルカディアへ赴き、タラシア家当主に今回の件を詫びる。
そのついでに領内を視察する。
それでタラシア家が撤退を考え直してくれるというのであれば、十分に話はまとめられる。これなら、なんとかなる。
車窓から流れゆく街並みを眺めながら、口元がわずかに緩んだ。
王城へ戻ったニコラスは、自分の執務室へ戻ることなく、その足で一直線にアレクシオスのもとへ向かった。
扉の前に立つ近衛に先触れを出してしばらく待つと、ほどなく入室を許された。
「兄上」
「ああ。どうだった?」
机に向かっていたアレクシオスが、高く積まれた書類から顔を上げる。
その表情からは、王太子としての激務からか、わずかばかりの疲労がうかがえた。
「話し合いには応じてもらえました」
「そうか」
アレクシオスは手にしていた書類へ再び目を落とした。
淡白な反応に、ニコラスはわずかな胸騒ぎを覚える。
ニコラスは机の前に立ったまま、気を取り直して報告を続ける。
「タラシア家が王都での事業を継続するにあたり、三つ条件があります」
「聞こう」
「まず、今後の立場について、王家から正式な保証がほしいとのことです。今回のようなことが再び起きれば、安心して事業を続けることはできないと」
書類をめくっていたアレクシオスの手が止まった。
「それは構わん」
「必要であれば、文書として残したいそうです」
「ああ。それもいい。王家の威信にかけて必ず実行しよう」
再び紙をめくる音がする。
やはり問題はない。
ニコラスは小さく頷いた。
「それから二つ目です。兄上には、一度アルカディアまで赴いていただきます」
紙をめくる音がぴたりと止まった。
アレクシオスが顔を上げる。
「私が?」
「はい。ミハイル殿に、今回の件について正式に謝罪していただきたいとのことです」
「断る」
間髪入れず返された言葉に、ニコラスは二、三度瞬きをした。
「……はい?」
アレクシオスは拒絶の意思を示すように、書類を机へ置いた。
「断ると言った」
「なぜです?」
「なぜ私が謝らねばならん。王族が臣下に頭を下げるなど、あってはならないことだ」
「なぜ、と言われましても……」
ニコラスは一度、窓の外へ目を向けた。
夏の日差しを浴びた王都の屋根が、遠くまで連なっている。
その向こうには青い空が広がり、白い雲がゆっくりと流れていた。
しばらくその景色を眺めてから、ニコラスは再び兄へ向き直った。
「今回の件で迷惑をかけたのはこちらです。王族とはいえ兄上が出向いて詫びるのは当然ではありませんか。それによって王の権威が落ちることもありません」
「私は婚約を解消したことを謝るつもりはない」
「婚約を解消したことではありません」
「では、何を謝る」
「やり方です」
ニコラスは兄の目を真っ直ぐに見た。
その瞳の奥にある理性を信じたかった。
「式典の場で、何の相談もなく一方的に婚約破棄を告げたことです。イレーネ殿だけではありません。ミハイル殿にとっても、何の話もないまま娘との婚約を破棄されたのですよ」
「それを私が謝る必要があるとは思わん」
「なぜです?」
「婚約を解消すると決めたのは私だ。式典で告げたことも含めて、間違ったことをしたとは思っていない。すべては国益のためだ」
「ですが――」
「それに、なぜ私がアルカディアまで行く必要がある」
「ミハイル殿はアルカディアにいらっしゃるからです」
「こちらへ呼べばいい」
アレクシオスはそう言うと、机に積まれた別の書類へ手を伸ばした。
「……謝罪する相手を、王都まで呼びつけるのですか? それでは火に油を注ぐようなものです」
「だから、私は謝罪するつもりはないと言っている」
話が元に戻った。
一瞬、呆然として言葉を失うニコラス。
「兄上」
「なんだ」
「婚約を解消されたことを謝れと言っているのではありません。そのやり方で、タラシア家に非礼を働いたことを詫びていただきたいのです」
「同じことだ」
「違います」
ニコラスは即座に言い切った。
アレクシオスは手にした書類を乱暴に机に投げ、椅子の背に深く体を預ける。
そして、おもむろに腕を組んだ。
「私には違うようには思えん」
「兄上がどう思われるかではなく、相手がどう受け取ったかという話です」
「だからといって、私が頭を下げる理由にはならん」
「なります。これ以上の混乱を避けるためにも必要なことです」
「ニコラス」
「兄上」
二人はしばらく黙って、互いの譲れない一線を確かめ合うように見つめ合った。
やがてニコラスが先に視線を外す。
これ以上押し問答を続けても平行線だと悟った。
タラシア邸では、あれほど簡単にまとまった話である。
なぜここで躓くのか。
ニコラスは居住まいを正した。
「……三つ目をお伝えしても?」
「ああ。とりあえず聞いてやる」
「アルカディアへ赴かれる際は、タラシア家が船を用意するそうです。その船でアルカディアへ向かい、滞在中に領内を視察してほしいとのことです」
「視察?」
「はい。港や街、そこで暮らし、働く人々を、一度ご自身の目で見ていただきたいと」
アレクシオスの表情が露骨に曇った。
「船で行くのか」
「はい。そのように伺っています」
「……なぜ船に乗らねばならん」
ニコラスは答えかけて、やめた。
また同じような問答になる気がした。
「タラシア家が用意すると言っているのですから、お任せすればよいではありませんか」
「私は船が嫌いだ」
「存じております」
アレクシオスはまるで子供のように恨めしそうにニコラスを睨んだ。
「ならば――」
「ですが、それは今回の話とは関係ありません」
ニコラスは感情を押し殺し、そのまま続けた。
「それに、視察そのものは兄上にとっても悪いことではないと思います」
「必要ない」
「外洋政策を見直されるのでしょう?」
「ああ」
ニコラスは眼鏡の蔓に指をやり、数回軽く叩いた。
「でしたら、その政策を長く支えてきたアルカディアを、一度ご自身の目でご覧になってもよいのではありませんか」
「見たところで、私の考えは変わらん」
「変えてほしいとは申し上げていません。見たうえで同じ判断をされるのであれば、それでよいではありませんか」
アレクシオスは答えなかった。
机の上では、先ほど置かれた書類の端が、開け放たれた窓から入る風に小さく揺れている。紙の擦れる音だけが、二人の間に流れた。
ニコラスはしばらく待ったが、これ以上の説得は今は逆効果だと判断し、やがて小さく息を吐いた。
「……分かりました。今日はこれ以上申しません」
「ああ。そうしてくれ」
「ですが、もう一度お考えください。国益のためです」
「ニコラス!」
「また改めます」
それだけ言って、ニコラスは一礼した。
執務室を出ると、長い廊下には高窓から夏の光が差し込み、磨かれた床を白く照らしていた。窓の向こうには、いつもと変わらない王都の街並みが広がっている。
ニコラスは足を止め、しばらくその景色を眺めた。
つい先ほどまで、これならなんとかなると思っていた。
タラシア家の求めるものは、どれも難しいものではない。
少なくとも、ニコラスにはそう思えた。
「……なぜだ?」
小さく呟く。
冷たい静寂が広がるばかりで、答える者はいない。
遠くから、正午を告げる鐘の音が聞こえ始めた。
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