第47話 三つの条件
翌朝。
ニコラスを乗せた馬車が、タラシア家の門をくぐった。
朝一番から押しかけるのは申し訳ないと思ったが、ことは急を要する。訪問の約束は、昨日のうちに取り付けてあった。
ニコラスは馬車の中で拳をきつく握りしめると、静かに目を閉じた。
やがて馬車が止まり、扉が開く。
ニコラスは目を開け、無駄のない所作で馬車を降りた。
屋敷の前では、赤い髪を朝の爽やかな風になびかせたイレーネが、パウロを伴いすでに待っていた。動きやすいパンツスタイルに身を包み、その立ち姿はいつもと変わらず凜としている。
今回ばかりは、王族だからとわざわざ出迎えさせてしまったことが、さすがに気まずい。ニコラスは何も言わず、イレーネの前まで歩み寄った。
「朝早くからすみません。何分、急ぎの要件がありまして」
「いえ。ニコラス殿下も大変でしょう。まずは奥へどうぞ」
イレーネはニコラスを気遣うように優しく笑うと、軽やかに身を翻した。
赤い髪が、その動きに合わせてふわりと揺れる。
ニコラスは促されるまま、その後に続いた。
奥の間へ向かう途中、何人もの使用人や家人とすれ違った。
書類を抱えて足早に廊下を行く者。何事かを話しながら階段を下りていく者。開け放たれた部屋では、荷造りをしている者の姿も見える。
タラシア邸にも、昨日の王城と同じような慌ただしい空気が流れていた。
しかし城の焦燥感とは違い、どこか前向きな、明るい雰囲気を孕んでいた。
ニコラスはその様子を横目に見ながら、改めて気を引き締めた。
応接室へ入ると、二人は向かい合うようにソファへ腰を下ろした。
パウロとニコラスの護衛は、それぞれの主人の後ろに控える。
メイドが二人の前に茶器を並べていく。
まだ茶を注ぎ終えないうちに、イレーネが口を開いた。
「北の街道の件は、もうよろしいのですか」
「ええ。ひとまずは。昨日、陛下にも報告を済ませました」
「それは何よりです」
イレーネはほっとしたように微笑んだ。
ちょうどその頃、メイドが茶を注ぎ終え、一礼して下がった。
イレーネはカップへ手を伸ばすことなく、正面のニコラスへ視線を戻す。
「それで、今日はどういったご用件で?」
つかの間の沈黙の後、ニコラスは右手で眼鏡の蔓を少し直した。
「……修了式での件です」
膝に置いた左手に、わずかに力が入る。
「兄上の決定が覆ることは、おそらくありません」
イレーネは黙ってニコラスを見る。
「第二練習艦隊も、外洋政策についてもです。タラシア家へ返上を求めた権益についても、兄上に撤回する意思はありません」
「そうですか」
返した返事は、驚くほど平坦で、イレーネの表情は、凪いだ水面のように動かなかった。
「ですから今日は、そのことをお願いに来たのではありません」
イレーネは興味を惹かれたように、わずかに首を傾げた。
「タラシア家が王都から引き上げようとしている人員や事業についてです」
ニコラスは訴えかけるように、イレーネをまっすぐ見た。
「すべてを引き上げることだけは、考え直していただけませんか」
イレーネはすぐには答えなかった。
静かにニコラスを見つめたあと、ようやくカップへ手を伸ばす。
「理由を伺っても?」
「事実として、タラシア家が王都で担ってきたものは大きすぎます。海運も、物流も、それに関わる多くの人々もです。兄上は各省に引き継がせればよいと考えています。ですが、それほど簡単なものではない――」
イレーネはカップを手にしたまま、黙って聞いている。
「――長い時間をかけて築かれたものを一度に失えば、王都にも少なからず混乱が出るでしょう。実際、昨日戻ったばかりの私のところへ、外務大臣が駆け込んできたほどです」
イレーネは口元に手を添えて、くすりと笑った。
「それは……大変でしたね」
「ええ。本当に」
ニコラスもわずかに苦笑した。
だが、すぐに真摯な表情へと戻す。
「それに、これは私個人の考えですが――」
わずかに、ためらうように言葉を選んだ。
「私は、王家とタラシア家がこのような形で袂を分かつことを望んでいません。これまでの貢献に対しては十分な敬意を払うべきだと考えています。兄の意向とは違うのかもしれませんが……」
イレーネの琥珀色の瞳が、わずかに揺れた。
ニコラスはそのまま続ける。
「政策について意見が違うことはあるでしょう。兄上が王位を継げば、これまでとは異なる道を選ぶこともある。それは仕方のないことです」
一度、深く息を吸った。
「ですが、それまで積み重ねてきたものまで、すべてなくしてしまう必要はないと思っています」
しばらく、イレーネは何も言わなかった。
窓の外では、いくつもの木箱を積んだ荷馬車が、ゆっくりと門へ向かっていた。
そのさらに向こう、河港に立つ灯台は、ここからでは小指の先ほどの大きさにしか見えない。
やがてイレーネは、手にしていたカップを静かにソーサーへ戻した。
微かな陶器の音が、部屋の静寂を破る。
「考え直すことは可能です」
ニコラスがわずかに身を乗り出す。
「ですが――条件がございます」
「伺いましょう」
返事は早かった。
イレーネはそんなニコラスをしばらく見つめてから、口を開いた。
「まず、今後もタラシア家が王都で事業を続けるのであれば、その立場について王家から正式な保証をいただきます」
「当然でしょう」
ニコラスは頷いた。
「今回のようなことが再び起きれば、タラシア家としても安心して事業を続けることはできません」
「分かっています。陛下とも相談し、必要な形を整えましょう」
イレーネが小さく頷く。
「それから、もう一つ」
「はい」
「アレクシオス殿下には、アルカディアまでお越しいただきます」
ニコラスが一度瞬きをした。
「兄上に?」
「はい」
イレーネの琥珀色の瞳が、すっと細められた。
「父に、今回の件について正式に謝罪していただきます」
「分かりました」
あまりにも早い返事だったため、今度はイレーネが目を瞬かせる。
「……よろしいのですか?」
「何がでしょう」
「王太子殿下ご本人にアルカディアまでお越しいただき、父に謝罪していただくのですよ」
「ええ」
ニコラスは不思議そうにイレーネを見返した。
「迷惑をかけたのはこちらです。兄上が出向いて詫びれば済むのでしょう?」
イレーネはしばらくニコラスの顔を見つめていた。
その様子からして、イレーネの懸念がどこにあるのか、本気で分かっていないらしい。やがて、口元を押さえるようにして小さく笑う。
「……何か?」
「いえ」
イレーネは笑みを残したまま首を振った。
「ニコラス殿下らしいと思いまして」
「どういう意味でしょう」
「こちらの話です」
ニコラスは少し腑に落ちない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「それで、条件は以上ですか?」
「もう一つだけ」
「はい」
「せっかくアルカディアまでお越しになるのです。領内を視察していただきたいと思っています」
「視察ですか」
「はい。港も、街も、そこで働く人々も。一度、ご自身の目でご覧いただきたいのです」
ニコラスは少し考えた。
「それも問題ないでしょう。むしろ兄上は、一度アルカディアをご覧になったほうがよいかもしれません」
イレーネは再び小さく笑った。
「その際は我が家の船でお連れいたしますわ」
ニコラスもつられるように笑顔になり、ようやく目の前の茶へ手を伸ばす。
茶からただよう柑橘類の爽やかな香りをしばし堪能し――
「では、その三点で?」
「ええ」
「分かりました。その条件を持ち帰って、兄に伝えます」
「ええ。ぜひ、お返事をお待ちしております」
イレーネは穏やかに微笑んだ。
「急ぎはいたしません。ですが、お返事をいただくまでは、タラシア家としてはこのまま進めさせていただきます。その点はご理解ください」
「もちろんです。そう長くお待たせすることにはならないでしょう。兄上も、事情をきちんと話せば分かってくれるでしょうから」
「アレクシオス殿下が……そうですね」
イレーネの口元に、ごく薄い、そして何かを見通すような笑みが浮かんだ。
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