第46話 ニコラス王子の諌言
アレクシオスの執務室には、午後の陽が斜めに差し込んでいた。
大きく開かれた窓から入る風が、机の上に広げられた書類の端をかすかに揺らしている。
アレクシオスは椅子に深く腰掛け、その向かいでは財務大臣フィリッポスが、何枚かの書類を手に報告を続けていた。
「それから、タラシア家の件でございますが」
フィリッポスは書類の一枚を抜き取り、恭しく机の上へ差し出した。
「今度は何だ」
「王都で、大規模な人員募集を始めております」
アレクシオスは顔を上げ、差し出された書類を面倒くさそうに手に取った。
「人員募集?」
「はい。船員、造船技師、職人、商人。それだけではございません。港湾や物流に携わる者にまで、広く声をかけているようでございます」
アレクシオスは仕方なく、手にした書類へ目を走らせる。
フィリッポスはそこで一度言葉を切り、アレクシオスの表情を窺った。
「どうやら、アルカディアへ連れていくつもりのようです」
「そうか」
思いのほか淡白な返事に、フィリッポスの目がわずかに動いた。
「……かなりの規模になる可能性もございますが」
アレクシオスはしばらく考えたが、やがて興味を失ったように、手にしていた書類を無造作に机の脇へ滑らせた。
「好きにさせておけ」
「よろしいので?」
「アルカディアは辺境だ。これから開発するとなれば、人はいくらいても足りんだろう」
フィリッポスは一瞬目を丸くしたあと、なるほどとばかりに何度か頷いた。やがて、その顔に得心したような笑みが浮かぶ。
「なるほど。さすが殿下、よくご覧になっておられる。私などは、これほど大々的に人を集めて何を始めるつもりなのかと、いささか気になっておりましたが――確かに、辺境の開発となれば人手はいくらあっても足りますまい」
アレクシオスは追従するフィリッポスの言葉など気にも留めず、先ほどまで目を通していた書類へ戻り、一枚めくった。
「王都には人がいる。それに、声をかけたからといって、皆がアルカディアまで行くわけでもあるまい」
「ごもっともでございます。では、この件については特段の対応は不要ということで」
「ああ」
「承知いたしました」
フィリッポスは満足げに頷き、手元に残った書類を揃えた。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
入ってきた侍従が一礼する。
「王太子殿下。ニコラス殿下がお見えです」
アレクシオスが顔を上げた。
「ニコラスが?」
「はい」
「戻ったのか。通せ」
「かしこまりました」
侍従が退室する。
フィリッポスは素早く書類を揃え、胸元に抱えた。
「では殿下、私はこれで失礼いたします」
「ああ」
アレクシオスは再び手元の書類へ目を落とす。
フィリッポスが扉へ向かうと、ちょうど外から扉が開いた。
「これは、ニコラス殿下。お帰りでございましたか」
その顔に、すぐさま愛想のよい笑みが浮かんだ。
「ええ。つい先ほど」
「長旅、お疲れでございましたでしょう。殿下がお戻りになられ、我々も心強い限りでございます」
「ありがとうございます」
ニコラスは穏やかに答えた。
フィリッポスが深々と一礼し、その脇を通り抜けていく。
ニコラスは去っていく背中を横目で見送り、ほんのわずかに鼻を鳴らした。
それから、執務机に座る兄へ視線を向けた。
「兄上」
ニコラスの声に、アレクシオスは書類から顔を上げた。
「戻ったか」
「はい。北の街道の件はこれで落ち着くかと思います」
「ご苦労だったな」
普段と変わらない。
ニコラスは兄の顔をしばらく見つめた。
廊下では、あれだけの人間が血相を変えて走り回っていたというのに。
「それで、今回のことについて、お話を聞かせてください」
アレクシオスが片眉を上げた。
「なんだいきなり」
「帰ってきた途端、外務大臣が私の部屋へ駆け込んできました」
「ああ」
「ああ、ではありません」
ニコラスは呆れたように兄を見た。
「王城中、大騒ぎです」
アレクシオスは手元の書類を置くと、椅子から立ち上がった。
「座れ」
執務室の一角に置かれたソファへ向かい、先に腰を下ろす。
ニコラスもその後に続き、向かいのソファに座った。
アレクシオスは肘掛けに肘をつき、軽く握った拳に頬を預ける。
「いずれやるつもりだったことを、始めただけだ」
「その『いずれ』が、なぜ私が一週間留守にしている間に全部来るのです」
アレクシオスは、さすがに弟ニコラスにはまずいと思ったのか、苦笑する。
「それは悪かったな」
「そういう話ではありません」
ニコラスは膝の上で手を組み、兄を見た。
「外洋政策を終わらせるおつもりなのですか」
「今までのように続けるつもりはない。これからは西に目を向けるべきだ」
「西征ですか」
「ああ」
アレクシオスは頬杖をついたまま答えた。
「外洋への進出に、これまでどれだけの金と人を使ってきたと思う。西へ領土を広げるのであれば、陸軍をもっと強化する必要がある。そちらへ回すべきだ」
「それは以前にも伺いました」
ニコラス自身、その考えが理解できないわけではない。
西方への進出を考えるのであれば、陸軍の増強は当然必要になる。これまで外洋政策に投じてきた予算と人員を、そちらへ振り向けたいという兄の考えにも十分な理がある。
開け放たれた窓の向こうから、馬車の車輪の音に混じって、衛兵の交代を告げる掛け声が聞こえていた。
「ですが、だからといって、すべてをやめる必要はないでしょう」
「中途半端に残せば、金も人も取られる」
「セルカーン帝国があります」
アレクシオスの表情がわずかに変わった。
「今すぐ脅威になるとは申しません。ですが、今後どう動くかは分からない。技術も、人材も育っています。規模を縮小するなり、目的を変えるなりすればよいでしょう」
「そのために第二練習艦隊まで残す必要はない」
「残せとは申しません」
ニコラスは軽く首を振った。
「縮小してもいい。再編してもいい。ですが、なぜいきなり解隊なのです?」
「不要だと判断したからだ」
「だから、急ぎすぎだと言っているのです」
アレクシオスがわずかに目を鋭くした。
構わず続けるニコラス。
「それに、タラシア家です」
「あの家がどうした」
「敵に回す必要がどこにあるのです?」
「敵になどしていない」
「兄上がそう思っていても、向こうがどう受け取るかは別です」
アレクシオスは頬杖を解き、ソファの背へ身体を深く預けると、足を組んだ。
ニコラスはわずかに身を乗り出した。
「外洋政策について意見が合わない。それは構いません。兄上が王になられれば、政策を変えることもあるでしょう。しかし、それとタラシア家との関係を壊すことは別の話です」
「権益を整理しただけだ」
「その権益を誰が担ってきたのです?」
ニコラスの声は穏やかなままだった。
「海軍も、海運も、王都への物流も、あの家は深く関わっています。縮小するなら縮小するで、引き継ぎが必要でしょう」
「それは各部門にやらせる」
「だから、その調整を先にするべきだったと言っているのです」
徐々に熱を帯びていく声に、アレクシオスの眉間に深い皺が寄った。
ニコラスは組んでいた手をほどき、少しだけ肩の力を抜いた。
執務机の上では、先ほどアレクシオスが脇へ滑らせたタラシア家の報告書が、風を受けてかすかに揺れていた。
しばらく、二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。
やがてニコラスは姿勢を正し、眼鏡の位置を直した。
「それで、アンナ嬢を新たな婚約者にされたとか」
「ああ」
ニコラスは少し考え込んだ。
「……よほどイレーネ殿がお嫌だったのですね」
「なぜそうなる」
「いえ。イレーネ殿は美しい方ですから。兄上は美人より、可愛らしい方がお好みなのかと」
「だから何の話をしている」
「だって、イレーネ殿は美人でしょう?」
ニコラスは大真面目だった。
アレクシオスはしばらく弟の顔を見つめていたが、やがて少し口を尖らせた。
「……悪いか」
「いえ。好みは人それぞれです」
一陣の風が、執務室内を吹き抜けていく。
「――とにかく」
ニコラスはすっと表情を戻した。
「兄上は、少し急ぎすぎです」
「またそれか」
「何度でも申し上げます」
ニコラスは指を一本立てた。
「外洋政策を見直したい。分かります」
もう一本。
「西征に備えて陸軍を強化したい。それも分かります」
さらに一本。
「イレーネ殿との婚約を解消して、アンナ嬢と結婚したい。これも兄上がお決めになることです」
「なら、何が問題なんだ」
「やり方です」
ニコラスは立てていた三本の指を下ろした。
「なぜ、すべてを一度にやるのです」
アレクシオスは腕を組んだ。
「決めたことを先延ばしにする理由がない」
「先延ばしではありません。調整です」
「同じことだ」
「違います」
即答だった。二人の静かな声が、広い室内で鋭く火花を散らす。
「兄上が王位を継がれるまで、まだ一年あります」
「だからこそだ。一年後に備えて、今から進めておく」
「一年もあるのです」
ニコラスは兄の目をまっすぐ見つめた。
「陛下がおられる。私もおります。大臣たちもおります。海軍とも、タラシア家とも話ができる。一年あれば、一つずつ整理して、無理なく方向を変えることができます」
「そんなことをしていれば、何も進まん」
「進めばよいというものではありません」
二人の視線が正面からぶつかった。
「兄上の決断が早いことは、長所だと思っています。昔からそうでした。ですが今回は、明らかにやりすぎです」
アレクシオスは答えず、組んだ腕の指先で二の腕を何度か叩いた。
「婚約についても同じです。イレーネ殿との結婚を望まれないのであれば、婚約を解消すればよい。それ自体に私は反対しません」
「なら――」
「だから、なぜ式典で突然おっしゃるのです」
アレクシオスの指先が止まった。
「陛下と話す。タラシア家と話す。イレーネ殿と話す。双方が納得できる形を探す。その後で公表すればよかったでしょう」
「私は間違ったことをしたとは思っていない」
「間違っているかどうかだけの話をしているのではありません」
ニコラスは眼鏡を外し、眉間を指先で揉んだ。
「わざわざ敵を作る必要はない、と申し上げているのです」
再び沈黙が落ちた。
眼鏡を掛け直し、ニコラスは兄の返事を待った。
アレクシオスはしばらく何も言わなかったが、やがて視線を窓の外へ向けた。
「もう決めたことだ」
「……そうでしょうね」
ここまで話して覆すつもりがないことは、ニコラスにも分かった。
ニコラスはしばらく兄の顔を見つめていたが、やがてソファから立ち上がった。
「分かりました」
「何がだ」
「もう決めてしまったものは仕方ありません」
ニコラスは服の裾を整え、兄を見る。
「やってみます」
「何を?」
「調整です」
アレクシオスが顔を上げた。
「外務大臣が、私が戻るなり部屋へ駆け込んでまいりましたので。このまま放っておくわけにもいかないでしょう」
「……そうか」
「はい」
ニコラスは扉へ向かい、途中で足を止めた。
「兄上」
「なんだ」
振り返ったニコラスは、わずかに眉を寄せた。
「次は、決める前に呼んでください」
アレクシオスは一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「分かった」
「本当でしょうね」
「分かったと言っている」
ニコラスはまだ少し疑わしそうに兄を見ていたが、やがて一礼した。
「では、行ってまいります」
「頼んだ」
ニコラスは一瞬だけ兄を見た。
何か言いかけたように口を開き――結局、そのまま閉じる。
踵を返し、執務室を後にする。
一人残されたアレクシオスは、しばらくソファに座ったまま扉を眺めていた。
やがて立ち上がり、執務机へ戻る。
机の脇には、先ほどの報告書がそのまま残されていた。
アレクシオスはそれを手に取り、もう一度ざっと目を通した。
「……勝手にやればいい」
冷ややかに呟き、報告書を屑籠へ滑らせた。
カサリ、と乾いた音を立てて、新天地の息吹を伝える紙片が闇へと沈んでいく。
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