第45話 たった一週間
ニコラスが一週間ぶりに王城へ戻り、自らの執務室へ足を踏み入れた瞬間、思わず歩みを止めた。
机の上には、いつになく高く書類が積み上がっていた。
留守にしていたのは、たった一週間。
それにしては――多すぎる。
思えば、王城に着いたときから妙な慌ただしさを感じていた。
普段は静まり返っている一角にも、今日は絶えず人の気配がある。
官吏たちは書類を抱え、足早に行き交い、海軍省の役人などはニコラスの姿に気づくと、慌てて頭を下げ、そのまま小走りに去っていった。
ニコラスは机の書類へ視線を落とし、眉を寄せる。
「これは――」
侍従に尋ねようとしたその時、廊下から荒い足音が近づき、扉が勢いよく開かれた。
「ニコラス殿下!」
入ってきたのは外務大臣だった。
いつも身なりを崩さない男が、今日は珍しく襟元が崩れて、息を切らしている。
「お戻りでしたか」
挨拶もそこそこに、外務大臣は机の前まで歩み寄った。
「ええ、つい先ほど。どうされたのです?」
「大変なことになっております」
ニコラスは書類の山へ目を落とした。
「……そのようですね」
「王太子殿下が、第二練習艦隊の解隊をお決めになりました」
ニコラスは顔を上げた。
眼鏡の奥の鋭い瞳が、わずかに見開かれる。
「第二練習艦隊を?」
「はい。それだけではございません。外洋政策についても大幅に見直すと。すでに海軍省には指示が出ております」
廊下を誰かが足早に通り過ぎる。
その足音が遠ざからないうちに、反対側から別の足音が近づいてくる。
「兄上が?」
「はい」
ニコラスは眉間に深い皺を刻んだ。
外洋政策の見直しについては、以前から兄が口にしていた。
国内への投資を増やしたいという考えも知っている。
だが――王位を継ぐのは一年後だ。
「陛下は、なんと?」
「王太子殿下のご判断にお任せになる、と」
「……そうですか」
父王はあえて口を挟まないことにしたのだろう。
そう考えたところで、外務大臣が続けた。
「それと、イレーネ・タラシア殿との婚約を破棄されました」
「……はい?」
ニコラスは思わず聞き返した。常に沈着冷静な彼の声が、初めて大きく揺れる。
「いつです」
「第二練習艦隊の修了式典でございます」
「式典で?」
「皆の前で」
ニコラスはしばらく外務大臣を見つめた。
その間にも、扉の向こうをいくつもの足音が通り過ぎていく。
やがて、ずれたわけでもない眼鏡を指先でゆっくりと直す。
「兄上が?」
「はい」
「……なぜ?」
「それが我々にも……」
外務大臣は言葉を濁した。
その顔には、この数日の疲れがはっきりと浮かんでいる。
さらに、タラシア家が王都と海軍で持つ権益についても返上を求めたことを聞かされる。
話している間にも、新たな書類が次々と執務室へ届けられていた。
海軍省、財務省、商工省。
侍従はそれらを淡々と受け取り、仕分けながら机の端へ積み上げていく。
ニコラスが帰ってきてからわずかな間にも、書類の山はさらに高くなっていた。
ニコラスは眼鏡を外し、眉間を強く揉んだ。
一週間――王都を離れていただけだ。
「兄上はどちらに?」
「執務室におられるはずです」
ニコラスは立ち上がった。
「まず、兄上から話を聞きます」
「殿下」
外務大臣の声に、ニコラスは振り返った。
「第二練習艦隊の件も、外洋政策の見直しもございます。ですが――」
外務大臣は一度言葉を切った。
その表情には強い焦燥が浮かんでいる。
「少なくとも、タラシア家との関係だけは修復していただかねばなりません。このままでは、取り返しのつかないことになります」
普段なら、外務大臣が王族の決定にここまで踏み込んだ言葉を口にすることはない。
「分かっています」
そう答えてから、少し考える。
「ただ、兄上にも考えがあるのでしょう。まずはそれを聞きます」
ニコラスは小さくため息をつき、部屋を出た。
兄の執務室へ向かう途中、何人もの官吏とすれ違った。
皆、ニコラスに礼をすると、すぐにまたそれぞれの行き先へと足を速めていく。
いつもの王城とは、明らかに空気が違っていた。
張り詰めた糸のような緊張感が、廊下の隅々にまで満ちている。
執務室の扉が見えてきたその時――
前方で、ひとりの官吏が抱えていた書類を盛大に落とした。
乾いた音が廊下に響き渡る。
「っ……失礼いたします!」
官吏は慌てて膝をつき、散らばった書類を拾い集める。
何枚かは廊下を滑り、ニコラスの足元までやってきた。
ニコラスは一枚を拾い上げ、差し出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます!」
官吏は書類を受け取ると、もう一度頭を下げ、束を抱え直して足早に去っていった。
ニコラスはその後ろ姿をしばらく見送り、静かに息を吐いた。
そして、混乱の元凶が待ち受ける、目の前の扉へ視線を向ける。
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