第44話 王都の変化③ これまで通り
レアンドロとの会談の翌日の午後。
王都のタラシア邸では、朝からひっきりなしに人の出入りが続いていた。
商人、職人、海運業者。
アルカディアへ移る者もいれば、今後の取引について相談に訪れる者もいる。
その応対を一手に引き受けているのが、ベアトリスだった。
商人との話を終えたかと思えば、次は職人から差し出された書類に素早く目を通し、その合間にも使用人へ次々と的確な指示を飛ばしている。
昨夜、イレーネの無茶な指示に動揺していた姿など、もうどこにもなかった。
一方、イレーネも執務室に籠もり、机に積まれた書類を片端から処理していた。
王都を離れる者の名簿、アルカディアへ送る荷の一覧、各商会から届いた今後の取引についての問い合わせ。目を通しても目を通しても、次の書類が待っている。
その時、扉を叩く音がした。
「イレーネ様」
入ってきたのはパウロだった。
「ペラゴス商会のドル様がお見えです」
イレーネは書類から顔を上げた。
「ドル会頭が?」
少し意外だった。
ペラゴス商会は、セルリア海東部沿岸を中心に船を走らせる老舗の海運商会だ。
タラシア家がこの地に出てきた頃からの古い付き合いであるが、わざわざ主人自ら訪ねてくるとなれば、ただの挨拶ではないだろう。
「隣の応接室へお通しします」
「分かったわ。すぐ行く」
イレーネは手にしていた書類を机へ置き、席を立った。
応接室の扉が開き、恰幅のよい男が姿を現した。
五十をいくつか過ぎた頃だろうか。日に焼けた顔に短い髭を蓄え、上等ではあるが飾り気のない服を着ている。大きな手と太い指は、商会の主となった今も、若い頃に船に乗っていたことを思わせた。
ドル・ペラゴスだった。
「いやあ、忙しいところ悪かったな、お嬢」
「相変わらずお元気そうで。ドル会頭ならいつでも歓迎よ」
イレーネは柔らかく笑い、向かいに据えられた革張りのソファを勧めた。
「会頭なんてよしてくれよ。むずがゆくなるぜ。いつも通りドルでかまわねえよ」
短く刈り込んだ頭に手をやりながら、気まずそうに肩をすくめるドルを見て、イレーネも思わずクスリと喉を鳴らす。
「分かりましたわ。ドルさん」
ドルは大きな身体をソファに沈め、傍らに立つパウロへ親しげな目を向ける。
「パウロさんも久しぶりだ」
「ご無沙汰しております、ペラゴス様」
パウロが静かに一礼した。
メイドの手が足らなかったのだろうか、少年の面影を残す若い執事が、茶器を載せた給仕台を押して入ってきた。
白磁のポットから二人のカップへ、琥珀色の茶を静かに注いでいく。
湯気とともに、ほのかな柑橘の香りが応接室にふわりと広がった。
「どうぞ」
「ありがとうよ」
ドルは日焼けした大きな手でカップを取り、一口すする。
「相変わらず、ここの茶はうまいな」
「ドルさん、昔からこれが好きだったものね」
「うちじゃ、こんないい葉は出てこんよ」
満足そうに息を吐き、もう一口。
イレーネもカップに手を伸ばす。
茶を飲みながら、しばらくの間、互いの近況を交わす穏やかな時間が流れた。
やがてドルは静かにカップを置いた。
その目から和やかさが消え、海運商会の主としての真摯な光が宿る。
何かを決意するように、膝の上でがっしりと太い指を組んだ。
「それでな。今日は一つ、話しておこうと思ってな」
「なに?」
「うちは残るよ」
「王都に?」
「ああ。王都と、東部にな」
イレーネはただ黙って先を待った。
「事情は聞いてる。王太子殿下がお嬢にした仕打ちも、第二練習艦隊のこともな」
ドルの眉間に深い皺が寄る。
「だから、お嬢たちがアルカディアへ引き揚げることに異を唱えるつもりはねえ。俺だって腹は立ってるさ」
「ドルさん……」
「だがな――」
ドルは一度重い息を吐いた。
「うちは王都にも店がある。東部の古都アンティアにも支店があるし、その先の沿岸にも昔から付き合ってる連中が山ほどいる。船乗りも、荷役も、店の者もいる。そいつらには女房もいれば子供もいる。俺一人なら、船に乗ってアルカディアへ帰れば済む。だが、商会ごととなると、そうもいかん。みんなを路頭に迷わせるわけにはいかねえんだ」
「分かってるわ」
イレーネはドルの目を真っ直ぐに見つめて答えた。
その瞳には非難の色などひとかけらもなかった。
「ドルさんの商会は、うちの商会じゃないもの。どこで商売をするかは、ドルさんが決めることよ」
「……そう言ってくれると思ってたよ」
ドルの顔に少し寂しげな苦笑が浮かんだ。
「うちの初代は、タラシア家が王都へ出てきた頃、一緒についてきて商売を始めた。俺で何代目になるのか、数えるのも面倒なくらいの付き合いだ。できることなら、お嬢たちと一緒に帰りたい気持ちはあるんだがな」
大きな手で無骨に髭を撫でる。
「それに、アギア・エレニへの船もある」
傍らに控えていた若い執事が、聞き慣れない地名にわずかに視線を上げた。
「まだ続けてるのね」
イレーネの表情が少し緩む。
「やめられるか。初代に化けて出られちまう」
「それは困るわね」
「だろ?」
二人が顔を見合わせて笑った。
ドルは目の前のカップを手に取り、残っていた茶を飲み干した。
肩の力が抜けたのか、カップを戻したときに、思いのほか大きな音が鳴った。
「だから、王都の店もアンティアの店も、そのまま続ける。今までどおり東の海で食っていくつもりだ」
ドルは自慢の髭を満足そうに撫で、それから不敵に唇を歪めた。
「でもまあ、いい機会だ。西にも商売を広げてみるか」
「あら」
イレーネの顔がぱっとほころぶ。
「じゃあ、これからもうちとの付き合いは続けてくれるの?」
「当たり前だろ。何十年の付き合いだと思ってる」
「嬉しいわ」
ドルはそこで傍らにたたずむパウロを見上げる。
パウロはいつもと変わらぬ彫刻のように静謐な表情で一礼した。
「委細承知しております」
「……相変わらずだな、あんたも」
ドルが一瞬黙り、それからあきれたように肩を揺らした。
その後もしばらく、二人は時間を忘れたように昔話に花が咲いた。
やがてドルは膝に手をつき、重そうな身体を持ち上げる。
「さて。長居しちまったな」
「もういいの?」
「こっちも暇じゃないんでな。お嬢が王都中ひっくり返すような大騒ぎをしてくれたおかげで、しばらく忙しくなりそうだ」
「大騒ぎって、それ、私のせい?」
「他に誰がいる」
ドルは腹の底から豪快に笑った。
「じゃあ、お嬢。向こうへ帰っても元気でな」
「ドルさんもね」
「また船を出すさ。商売までやめるわけじゃねえんだから」
「ええ。待ってるわ」
ドルは片手をひらりと上げ、応接室を出ていった。
若い執事がその大きな背中を見送り、静かに扉を閉める。
室内に先ほどまでの賑やかな声の余韻だけが残った。
若い執事は卓へ戻ると、ドルが使っていた空のカップをそっと給仕台へ戻した。
ふと、ドルの座っていた椅子へ目を向ける。
「お嬢様」
傍らに控えていたパウロの眉根が、ほんのわずかに動いた。
若い執事は気づいていない。
「なに?」
「先ほどお話に出ていた、アギア・エレニ島というのは?」
「ああ」
イレーネは自分のカップを手に取った。すでに白磁の縁から立ち上る湯気は薄くなっている。
「古都アンティアから南へ、船で一日もかからないところにある島よ」
「そのようなところにも町が?」
「町なんて立派なものじゃないわ。小さな漁村があるだけ。それなりに大きい島で、一応、海軍の船も寄るんだけどね」
イレーネは少し冷めた茶を口に含む。
「土地も痩せていて、あまり豊かな島じゃないの」
「では、海運商会が定期的に船を出しても、あまり商売にはならないのでは?」
「ならないでしょうね」
あまりにあっさりとした答えに、若い執事が目を丸くした。
「魚を買って、代わりに穀物や塩、生活に必要なものを運んでる。でも島自体が小さいから、扱う量もたかが知れてるわ」
「それでも、ずっと航路を?」
「ええ」
イレーネは茶器を置いた。
「昔、ドルさんの商会の初代が島へ寄ったことがあったんですって。島の人たちがずいぶん貧しい暮らしをしていたらしくてね。見かねて取引を始めたの。百年近く前のことよ」
「それが今でも……」
「ずっと。ほとんど儲けなんてないはずよ」
若い執事は給仕台の茶器へ目を落とし、それからドルが座っていた椅子を見た。
「ずいぶん義理堅い方なのですね」
「そうね」
イレーネは小さく笑った。
「昔から、義理堅いだけではないのだけれど、でもそういう商会よ」
「なるほど……」
若い執事は納得したように頷くと、再び傍らへ静かに控えた。
イレーネは冷めきった茶を手に取ってもう一口飲む。わずかに渋みの増した琥珀色の液体が、彼女の喉を潤した。
傍らに立つパウロは何も言わない。
すべてを知り尽くした老執事は、ただいつものように、静かな表情でその様子を見ていた。
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