第5話 スパーキャラック
海軍工廠には、午後になっても絶え間なく槌の音が響いていた。
船台では、建造途中の船を囲む足場を職人たちが行き交い、乾船渠では船底を露わにした軍艦の修繕が続いている。木槌の乾いた音に、ときおり鉄を叩く甲高い音が重なった。
潮と木材、それに煮詰めたタールの匂いを含んだ風が、港から吹き込んでくる。
陽は少し西へ傾き始めていたが、一日の仕事を終えるにはまだ早い。
その喧騒から少し離れた埠頭の先に、一人の老人が立っていた。
日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、短く刈った髪には白いものが目立つ。王国海軍の軍服を着ているが、腰に剣はない。
節くれ立った手には使い込まれた革手袋が握られている。
海軍工廠責任者、技術大佐ルシウスは、両手を背に回し、港口の向こうをじっと眺めていた。
「大佐」
背後から声がかかる。振り返ると、真新しい軍服を着た若い技術士官が近づいてきた。一月ほど前に工廠へ転属してきたばかりの青年だ。
「何を見ておられるんです?」
「第二が戻る」
ルシウスは再び海へ目を向けた。
「第二練習艦隊ですか?」
「ああ。そろそろ見える頃だ」
青年も隣に立ち、沖へ目を凝らす。だが、その視線は途中で止まった。
「……何度見ても、大きいですね」
港内には、すでに一隻の巨艦――
第一練習艦隊の旗艦アンドレイアが停泊していた。
黒く塗られた幅広い船腹は、海面から壁のように立ち上がっている。
艦首と艦尾には巨大な船楼が高くせり上がり、その間だけ甲板が深く落ち込んでいる。横から見れば、船全体が大きなUの字を描いていた。
巨体から伸びる三本のマストが空を突き、無数の索具が張り巡らされている。
甲板を行き交う水兵たちは、岸壁から見れば豆粒のようにしか見えない。
船尾の装飾は傾き始めた陽を受けて金色に輝いていた。
「城みたいだ……」
ルシウスが鼻を鳴らした。
「アンドレイアか。まあ、間違っちゃいない」
舷側には四角い砲門が一列に並ぶ。片舷十門、左右合わせて二十門。
その向こうには四輪の砲架に据えられた艦砲が並んでいる。
だが、砲撃はあくまで敵船へ近づくためのものだ。
高くそびえる船楼には多くの兵を乗せ、接舷すれば敵船を見下ろす高さから一気に兵を送り込む。
敵船へ乗り込み、剣を交えて制圧する白兵戦こそ、王国海軍では海戦の華とされていた。アンドレイアの巨大な船体と高い船楼は、そのためのものでもある。
「王国の四個艦隊の旗艦も、あれと同型なんですよね」
「ああ。あいつは最新のエウリシア級五番艦、アンドレイアだ。一般型のオリンポス級をさらに改良した奴だ」
「エウリシア級……?」
「てめえ、そんなことも知らねえのか」
ルシウスがこめかみに筋を立て、青年を睨む。
「いや、知ってますよ。一番艦の名前が艦級名になるんですよね。ただ、なんで国の名前なのかと思って」
ルシウスはしばらく青年を睨んでいたが、ばつが悪そうに口を歪めた。
「先代のタラシア家当主、テミストクレス様だ」
「え?」
「あの船が完成したときにな。『王国一の船になる。ならばエウリシアでいいだろう』とか言って、王にねじ込んだんだよ」
青年が目を丸くする。
「王に……すごいですね」
ルシウスは港に浮かぶアンドレイアへ視線を戻した。
「そういう人だったんだよ」
青年はルシウスの横顔をちらりと見た。
「では……戦になれば?」
「場合によっちゃ、臨時で艦隊を組むこともある。そんときは、あいつがその旗艦になる」
青年は改めて巨艦に目を向けた。その威容は、王国海軍の力そのものだった。
「強そうですね」
「強いさ。あれはいい船だぞ」
青年が意外そうに振り向く。
「大佐もそう思われるんですね」
「なんだ。俺が嫌ってるとでも思ったか」
アンドレイアを眺めるルシウスの目が、わずかに細まる。
「セルカーンとの戦で、スーパーキャラックがどれだけ働いたと思ってる。敵船に横付けして兵を送り込むなら、あれほど頼りになる船はなかった」
「大佐は、その頃から?」
「まあな。いい船だよ。今でもな」
青年は少し気まずそうに頭を掻いた。
紙の上の図面と、実際に海に浮かぶ巨艦はまるで違う。
大きく、華やかで、頑丈。王国海軍の象徴だった。
「通常のキャラックとは大分違うんですよね」
「そりゃそうだ。普通のキャラックに大砲なんざ積んだ日にゃ、撃つたび船が暴れるぞ。アンドレイアでは――まあ、それなりに揺れるだけだ」
「船体の大型化が効いているんですか?」
「まあ、それだけじゃねえが――」
ルシウスの目が沖へ向いた。
「来たぞ」
青年も沖へ振り返る。陽光を受けて輝く海の向こうに、小さな白い点が見えた。
一つ、二つ。
やがて、それが帆だと分かる。
「第二練習艦隊……」
白い帆が次第に大きくなる。先頭の一隻の輪郭がはっきりしてくる。
青年は眉を寄せた。
「……ずいぶん違いますね」
スーパーキャラックとはひと目で違った。
低く、細い。
船首楼はわずかに持ち上がる程度で、船尾楼も低く抑えられている。
黒い船腹は細長く、艦首から艦尾まで滑らかにつながっている。
「ガレオン……」
青年が呟く。
「実物は初めてか」
「はい。なんというか……すっきりしていますね」
ルシウスの片眉が上がる。
「便利な言葉だな」
「いや、その……正直に言いますと、ちょっと物足りないです」
「ほう」
「悪い船だと言ってるわけじゃありませんよ。ただ……砲門は十門。スーパーキャラックと同じなのに、どうしてわざわざ、あんな形に――」
ガレオンの甲板で、水兵たちが一斉に動いた。索具が引かれ、一枚の帆が風を逃がす。ほとんど間を置かず、別の帆が大きく膨らんだ。
細長い船体が傾く。
艦首が大きく向きを変えた。
「……え?」
青年は思わず一歩前へ出た。
ガレオンは風を捉え直すと、勢いをほとんど殺すことなく波間を駆ける。
艦首が白い飛沫を左右へ弾く。
港内を重々しく進む第一練習艦隊の僚艦の外側へ回り込み、前へ出る。
やがて、停泊するスーパーキャラックの沖側を通過した。
二隻の姿が重なる。
全長はほとんど変わらない。だが、同じ長さの船とは思えなかった。
海面にどっしりと腰を据え、巨大な船楼をそびえさせるスーパーキャラック。
その前を、低く細いガレオンが滑るように走り抜けていく。
違いは歴然だった。
「……速い」
青年が呟く。
ガレオンの艦首がスーパーキャラックより前へ出る。
「なるほど。速い船なんですね」
返事がない。
「大佐?」
振り向くと、ルシウスは腕を組み、ガレオンを見ていた。
「それだけか?」
「え?」
「見て分かったのは、速い。それだけか」
「ええと……船楼が低い」
「見りゃ分かる」
「船幅が狭い」
「それも見りゃ分かる」
「……長さは同じくらい」
ルシウスが大きく息を吐いた。
「見たまま言ってどうする」
「実物を見るのは初めてなんですから、無茶言わないでくださいよ」
青年が不満そうに言う。
ルシウスは横目で青年を見た。そして、もう一度ガレオンへ視線を戻す。
「まあ、今のお前には分からんか」
「何がです?」
ルシウスは答えなかった。
港では第二練習艦隊を迎える水兵たちが動き始めている。
号令が飛び交い、岸壁では係留索を受け取るために人が集まっていた。
その向こうを、細長いガレオンが進んでいく。
ルシウスはしばらく黙ってその姿を眺めていた。
「……まだ足りねえな」
「え?」
「なんでもねえ」
革手袋を腰に差し込み、工廠の方へ歩き出す。
背後では、第二練習艦隊のガレオンがゆっくりと帆を畳み始めていた。
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