第42話 王都の変化① 仕事のある場所へ
婚約破棄から数日が過ぎた。
王都の一角にある職人街では、朝から槌を打つ音がせわしなく響いていた。通りに面した工房の大きな扉は開け放たれ、その奥では十数人の職人たちが汗を滲ませながら、忙しく手を動かしている。
壁には大小さまざまな滑車が吊るされ、棚には真新しい金具や工具が並ぶ。天井近くの梁からは太い麻縄が何本も垂れ下がり、木材と油、そして金属の匂いが入り混じっていた。
ここは船具を専門に扱う工房だった。
船そのものを造るわけではない。だが、船を海へ出すために必要なものなら、大抵のものはここで作る。滑車、索具、錨に使う金具。帆桁を固定する部品から、甲板で使われる細かな道具まで。王都の軍港や商船から注文を受け、長年にわたって船乗りたちの仕事を支えてきた自負が、工房にはみなぎっている。
その工房の奥で、白髪交じりの男が険しい顔で腕を組んでいた。
「親方。本当なんですか」
若い職人が、おそるおそる尋ねる。
男はすぐには答えなかった。代わりに、作業台の上に置かれた一枚の紙へ目を落とす。
数日前に届いたものだった。
上質な紙には、確かにタラシア家の紋章が刻まれている。
アルカディアで造船所を拡張する。新たに船を造り、港湾設備にも手を入れる。それに伴い、船大工をはじめ、船具や帆、索具、金物を扱う職人を広く求める。
そんな、すぐには信じがたい話だった。
「でも、王太子殿下は外洋政策をやめるって……」
別の職人が不安げに口を挟んだ。
「聞いたよ。第二練習艦隊も解散だそうだ」
「じゃあ、軍港の仕事は?」
「知らん」
ぶっきらぼうな答えに、職人たちが顔を見合わせる。
その表情には、仕事の先行きに対する不安がじわりと滲んでいた。
ここ数日、職人街を飛び交っている噂はそれだけではなかった。
タラシア家が王都から手を引くらしい。王都邸も畳むらしい。これまで王都へ流れていた荷の一部も、別の場所へ向かうらしい。
どこまでが噂でどこまでが本当の話なのか、誰にも分からない。
王城から正式な知らせが出たわけでもない。
だが、タラシア家と長く付き合ってきたこの工房には、噂だけでは済まされない変化がすでに見え始めていた。
来月分まで入っていた注文のいくつかが唐突に取り消された。
そして、代わりに穴を埋めるかのように届いたのが、アルカディアからの誘い話だった。
「親方は……どうするんです?」
その言葉に、水を打ったように工房が静かになった。
隣の作業台から聞こえていた鑢の音も止まり、いつの間にか職人たちの視線が親方へ集まっている。
親方は黙って一人一人の顔を見回した。
王都へ出てきて、もう二十年以上になる。
若い頃はアルカディアの造船所で働いていたが、腕一本で食っていけると思い王都へ出た。それからがむしゃらに働いて、弟子を取り、いつしか自分の工房まで持つようになった。
悪い土地ではなかった。仕事は多く、金も稼げた。ここで妻を娶り、子供も育てた。
その妻は数年前に先に逝った。子供たちも今では独立し、それぞれ自分の生活を持っている。
だから――引き止めるものは、もう何もない。
「俺は帰る」
誰かが息を呑んだ。
「……帰るって」
「アルカディアだよ」
親方は作業台の上の紙を節くれ立った指で強く叩いた。
「あっちで船を造るって言ってるんだ」
「でも……」
「こっちは外洋へ出るのをやめる。あっちはこれから船を造って、港を広げて、海へ出るっていう」
親方はそこで鼻を鳴らした。
「だったら、俺はあっちへ行く」
若い職人が困惑したように眉を寄せる。
「タラシア家についていくってことですか?」
「馬鹿言え」
親方は即座に切り捨てた。
「俺は職人だ」
ごつごつした手を広げる。
何十年も金属と木と縄を扱い続け、皮が硬くなり、節くれ立った太い指には、いくつもの古い傷が残っていた。
「あちらで船を造ると言っているんだ。仕事がある場所へ行く。それだけだ」
職人たちは何も言わなかった。
親方は作業台の脇に置かれた椅子を引き寄せ、どっかりと腰を下ろす。
「だからって、お前らまで来いとは言わん」
何人かが顔を上げた。
「家族もある。ここを離れられねえ奴もいるだろう。王都生まれの奴だっている。無理についてくる必要はねえ」
「でも、親方がいなくなったら、この工房は……」
「残す」
「え?」
「建物も、設備も、でかい道具も置いていく」
親方は、長い年月、魂を込めて大事にしてきた工房の中を、ゆっくりと愛おしそうに見回した。
使い込まれた作業台。壁一面に並ぶ工具。何年もかけて買い揃えてきた工作機械。
どれも、この王都で自分が築いてきたものだった。刻まれた傷一つ取っても大事な誇りであった。
「残る奴には、この工房をそのまま譲ってやる」
意を決して、工房中に聞こえる大きな声で告げた。
今度こそ、職人たちの間にざわめきが広がった。
「譲るって、親方……」
「俺がいなくなるだけだ。建物も道具も残る。ここで仕事をやりたいなら、お前らで続けりゃいい」
「そんな簡単に……」
「簡単じゃねえよ」
親方は不敵な笑みを浮かべた。
「だから、お前らで考えろ」
その一言に、ざわめきがピタリと止まる。
「俺についてアルカディアへ来るのもいい。ここに残って、この工房を継ぐのもいい。他所へ行ったって構わねえ」
親方は改めて、一人一人の顔を見た。
「自分の食い扶持だ。自分で決めろ」
再び、工房に重い沈黙が落ちた。
誰もすぐには答えなかった。
妻と幼い子供のいる者もいれば、年老いた両親を養っている者もいる。王都で生まれ、この街以外をほとんど知らない者にとって、アルカディアは同じ王国にありながら、海の向こうの果てにあるような遠い土地でもあった。
一方で、まだ独り身の若い職人たちもいる。
彼らの何人かは、作業台に置かれた紙をちらちらと盗み見ていた。
新しい造船所。新しい船。そして、これから広がる港。
職人を求めている土地。
その言葉には、若い彼らの挑戦心を惹きつける何かがあった。
やがて、一人の青年が口を開いた。
「親方」
「なんだ」
「向こうでも、こういう仕事はあるんですよね」
親方が片眉を上げる。
「船を造るんだぞ。俺たちの仕事がなくてどうする」
「……ですよね」
青年は少し考え込んだあと、意を決したように顔を上げた。
「俺、行きます」
親方は青年の顔を見て、面白いものでも見たかのように口角をわずかばかり上げる。
その瞳には、かつてアルカディアを飛び出し、腕一本で王都へやってきた若き日の自分と同じ、無鉄砲で真っ直ぐな光が宿っていたからだ。
「そうか」
返したのは、それだけだった。
「お前、本気か?」
隣にいた職人が驚いたように青年を見る。
「だって俺、独り身だし」
「だからってよ」
「それに――」
青年は少し照れくさそうに鼻の下を擦った。
「新しい船、造るんだろ?」
その一言に、何人かの若い職人が顔を見合わせる。
王都で船具職人として働く者なら、アルカディアの造船所の名を知らない者はいない。まして、これから新しい船を次々と造るという。
若い職人にとって、その話が魅力的でないはずがなかった。
親方は何も言わなかった。ただ、わずかに口元を緩めると、ゆっくりと立ち上がった。
「話は終わりだ。仕事に戻れ」
「親方、いつまでに決めれば?」
「三日やる」
「三日?」
「家族がいる奴はちゃんと話してこい。一人で勝手に決めるんじゃねえぞ」
職人たちから小さな笑いが漏れた。
張り詰めていた空気が、いつの間にか少しだけ軽くなっていた。
やがて止まっていた工房が、再び動き始める。
槌を打つ音が戻り、鑢が金属を削り始める。太い縄を締め上げる掛け声も聞こえてきた。いつもと変わらない工房の音だった。
親方も自分の作業台へ戻ろうとして、ふと足を止める。
壁に並んだ工具へ目を向けた。
長年使ってきたものばかりだった。
その中から一本の古びた金槌を手に取る。
柄は黒ずみ、握る部分は長年使い続けた手の形にわずかに窪んでいた。
若い頃、アルカディアから王都へ出てくるときにも、持ってきたものだった。
親方はしばらくそれを眺めた。
そして、作業台の端へ置く。
王都に残していく道具とは、少し離れた場所へ。
ゴトリ、と金槌が重い音を立てた。
それを見ていた者は、誰もいなかった。
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