第41話 新たな商い
レアンドロも笑みを浮かべたが、そこでふと眉を上げる。
「しかし、まだ条件を伺っておりません。これほどの取引、私どもに何を求めておいでで?」
「あ」
イレーネが、たった今思い出したかのように瞬きをする。
レアンドロは、拍子が抜けたように吹き出した。
「そうだったわね……」
「商談をなさっているのですよね?」
「そのつもりよ」
イレーネは、気恥ずかしさを隠すかのように小さく咳払いをして、気を取り直して地図へ目を戻した。
「代わりにこちらが求めるのは、これからもペトラ家には私たちと商売を続けてもらいたいってことなの」
「それが条件ですか」
「ええ。王都では、うちが抜けたところを使えばいい。ネイモでは今まで以上に深く取引する。うちがこれから作る新しい商流にも付き合ってほしい。それだけ」
レアンドロはしばらくイレーネの真意を探るように見つめていた。
「……それだけですかな?」
「何が?」
「例えばですが、王家との取引を控えろ。殿下から距離を取れ。そのような政治的な条件が付くものと思っておりました」
「どうして?」
イレーネは今度こそ、本当に何を言われているのか分からないという顔をした。
「ペトラ商会が誰と商売するかなんて、あなたが決めることよ。タラシア家が口を出す権利なんてどこにもないわ」
「王太子殿下とこれまで通り取引を続けても?」
「儲かるなら続ければ?」
レアンドロは言葉を失って一瞬黙った。
やがて低く笑う。
「これは失礼いたしました」
「何が?」
「いえ。こちらの話です。私の眼力もまだまだなようで」
イレーネは怪訝そうにしたが、それ以上は尋ねなかった。
「それより、セルカーン」
その名を出した瞬間、レアンドロの表情がほんの少しだけ変わった。
「帝国が少し騒がしいわね」
「さて。私のところには、そのような話は――」
「そういうの、いいから」
レアンドロの言葉を、イレーネが遮った。
「あなたが知らないわけないでしょう」
「……これは手厳しい」
「別に教えてもらおうっていうんじゃないわ。私のところにも入ってきてるもの」
レアンドロは降参とばかり肩をすくめ、苦笑した。
「確かに、あまり穏やかではない話はいくつか。主に北部のサフィルから帝都にかけてはざわついてるようで」
「でしょう?」
イレーネの指が地図の南へ動いた。
「だから、セルカーンとの商売も少しやり方を変える」
「西翼海ですか」
「ええ。そっちを増やすわ」
「王国を経由する必要もない」
「アルカディアからなら、その方が早いもの」
「もっともですな」
今度は、イレーネの指が大陸の西へ、さらにその先に広がる海へと向かった。
「それと、外洋も続けるわよ。ストームベルトの先も見たいし」
レアンドロが眉を上げた。
「殿下は、王国の外洋政策を打ち切られたと聞いておりますが」
「王国はね」
「……なるほど」
「アルカディアまで海へ出るのをやめる理由はないでしょう?」
「確かに」
「サルヴァーノとの交易だって、ようやく形になってきたところなのよ。それを王太子に言われたからって捨てるなんてもったいないじゃない」
「では、今後も?」
「むしろ増やすつもり。海運だけやってればいいなんて言われたので、好きにやらしてもらうわ」
言葉に少しのとげが入るが、イレーネは気にもとめずに地図の西側、険しい山脈を越えた先にある『サルヴァーノ地方』から、さらに西の未知の海域へ向かって、指でなぞった。
「船も造る。港も広げる。人も集める。今まで王都で使っていたお金も人も、これからはすべてアルカディアへ回せるもの」
「ずいぶんと大きく出られますな」
「そう?」
「ええ」
「でも、やることは今までと同じよ」
イレーネは地図を軽く叩いた。
「海の向こうに何があるのか調べて、行けるなら船を出す。それだけ。王太子が王族の悲願を果たすって言うんでしょ。なら、うちも先祖に倣うだけよ」
レアンドロが肩を揺らして笑う。
「実にタラシア家らしい」
「褒めてる?」
「もちろん」
「ならいいわ」
イレーネも、ようやく少女らしい悪戯っぽい笑みを浮かべて笑った。
「あなたも興味があるなら、外洋の商売にも付き合ってもいいのよ」
「それはまた、大きな餌をぶら下げられましたな」
「嫌ならいいわよ? 他を当たるから」
「誰も嫌とは申しておりません」
レアンドロは地図へ目を落とした。
もうただの地図ではなく、宝の地図にしか見えなくなっていた。
王都では、タラシア家が残していく商圏を引き継げる。
ネイモには、サルヴァーノとの交易品がこれまで以上に集まる。
西アストラ川を通じた上流への物流も増える。
王都の商人がそれらを欲しがれば、今度はペトラ家の商売になる。
さらに、セルカーンとの交易。
その先には、まだ広がる可能性のある外洋交易まである。
少なくとも、ペトラ家にとって断る理由はなかった。
「それと、もう一つお願い」
「まだございますか」
「あるわ」
イレーネは悪びれもせず答えた。
「人を集めて、アルカディアまで安全に運んでほしいの」
「人を?」
「私たちがアルカディアに戻った後も人は集めたいの。職人、船乗り、商人、農民。ほかにも来たい人がいるならどんな身分であれ喜んで受け入れるつもり」
「……なるほど、移住希望者の受け入れ窓口と輸送を引き継いでほしいと」
レアンドロが顎に手を添え、しばし考えにふける。
「王都で、ですか?」
「王都だけでもいいけど、あなたの商会があるところなら、できる範囲でやっていただけると嬉しいわね」
再度レアンドロは顔を上げ、イレーネに尋ねる。
「タラシア家が王都から引き上げた後、私どもの店舗で希望者を受け付け、ある程度まとまったところで、こちらで手配した便でアルカディアへ送る……と。そういうことですね」
「ええ」
「家族も含めて?」
「もちろん」
「家財も?」
「本人が持っていきたいものがあるなら」
「職人なら、仕事道具もございますな」
「それも全部運んであげて。職人の手はアルカディアの宝になるわ」
レアンドロは目をつむり、しばし頭の中で必要な馬車や船の数を弾く。
「相応の船が必要になりそうですな。定期便では足りませんね」
「だから、今のうちにお願いしてるの」
「なるほど、合点がいきました」
「心配しなくても、船賃は全額タラシア家で払うわよ」
「それを聞いて安心いたしました」
「そこはしっかり取るのね。値引きしてくれてもいいのよ」
「商人ですので。とれるとこからは取りませんと」
二人とも、お互いにあきれるように見つめ合い、少し笑った。
やがてレアンドロが、興奮を落ち着かせるように地図へ視線を戻した。
「ただ、一つ懸念がございます。これだけの人がアルカディアへ一斉に向かえば、いずれ王城が何か言い出すかもしれませんな」
「でしょうね」
イレーネはあっさり答えた。
「場合によっては、難癖をつけてアルカディアへの輸送そのものを止めようとするかもしれません」
「王命でも出すの?」
「そこまでするかは分かりませんが、用心に越したことはありません」
「なら、そうなったらそうなったで、細かいことはそのとき考えればいいわ」
言いながらも、イレーネの声音にはどこか余裕があるようだった。
彼女の指が地図上の一点、王国側の街、ロダを指し示す。
「王城が何か言い出したら、行き先はロダにして」
レアンドロの目が、イレーネの指先へ向いた。
「ロダ、ですか。確かに王国内ですが……」
「ええ」
イレーネはそれだけ言って、茶を一口飲んだ。
レアンドロは食い入るように地図を見る。
王国の南、リスト山地の麓にある港町ロダ。
そして、その先。
しばらくして、口元に薄い笑みが浮かんだ。
「なるほど。ロダへの国内移動であれば、王城は文句も言えませんな」
イレーネも楽しそうに笑う。
「海は天気が変わりやすいでしょう?」
「ええ。まことに。天候の悪化で行き先が少々変わることは海ではよくありますから」
それ以上の説明は必要なかった。
イレーネは満足そうに地図を畳み、持ってきた鞄の中へと丁寧にしまう。
「やっていただけるかしら?」
「分かりました」
レアンドロは深く頷いた。
「ペトラ家として、この話をお受けいたしましょう」
イレーネの表情が明るくなる。
「ありがとう」
「ただし、商売ですから、細かな条件については後ほどつめさせていただきましょう」
「それはもちろん。実務的なことは後で、うちのとびきり優秀な者をよこすわ」
「値切られても困りますな」
「だから、そういう駆け引きは苦手だって言ったでしょう?」
「でしたな」
二人で声を合わせて笑った。
イレーネは鞄を小脇に抱え、静かに席を立つ。
「じゃあ、細かい話はうちの者と詰めて」
「承知いたしました」
「ベアトリスっていう、うちの商売をまとめてる責任者がいるの。あとで寄越すわ」
レアンドロも立ち上がり、二人で握手を交わす。
「イレーネ様」
「なに?」
「一つだけ、私からもお願いしてよろしいですかな」
「どうぞ」
「外洋で新しい商売を見つけられたときは――」
商人らしい笑みが浮かんだ。
「最初にペトラ家へお声がけいただきたい」
イレーネは一瞬きょとんとして、それから破顔した。
「もちろん」
「それを聞いて安心いたしました」
二人は手をほどき、レアンドロが一礼する。
イレーネも軽く頭を下げ、応接室を出た。
階段を下りると、商会の喧騒が耳に戻ってきた。
相も変わらず商人たちが声を交わし、人夫が荷を運び、店の前では荷馬車が次々と出入りしている。
王都は、今日も何事もなかったかのように動いていた。
けれど、この光景も少しずつ変わっていく。
王都から何かを奪うためではない。
ただ、タラシア家が自分たちのものを持って、王都からいなくなる。
その準備が、また一つ終わった。
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