第40話 王都の商圏
婚約破棄から、三日ほどが過ぎていた。
その日の午後、イレーネは王都にあるペトラ商会を訪れていた。
大通りに面した、堂々たる建物の前には何台もの荷馬車が隙間なく停まり、人夫たちが大声を掛けながら忙しなく荷を運んでいる。
王都でも有数の商会だけあって、開け放たれた店の中も熱気を孕んだ活気に満ちていた。
案内された二階の応接室では、一階の喧噪が嘘のように静まりかえっており、上質なちょうどに囲まれたその部屋で、レアンドロ・ペトラがすでにソファから立ち上がって待っていた。
「これはイレーネ様。このような場所にわざわざお越しいただき、恐縮です」
レアンドロは商人らしく、愛想のよい笑顔を浮かべ、恭しく頭を下げる。
「私からお願いがあるんだもの。こっちから出向くのが普通でしょう?」
「左様でございますか」
「ええ」
勧められた革張りのソファへ流れるような動作で腰を下ろす。
レアンドロも衣服の皺を整えながら向かいに座った。
卓上に運ばれてきた、淹れたての紅茶から上質な香気が立ち上る。
「それで、本日はどのようなお話でしょう。タラシア家のイレーネ様ともあろう方が、私どもに直々に御用とは」
探るようなレアンドロの問いに、イレーネは勿体ぶることなく、極めて淡々とした口調で本題を切り出した。
「王都でうちが持っている商圏、あなたに譲ろうと思って」
レアンドロの表情が止まった。
「……はい?」
聞き返したあとも、レアンドロはしばらく彫像のように固まったまま、イレーネの顔を凝視していた。
質の悪い冗談でも言っているのか確かめているらしい。
イレーネは気にする様子もなく、持ってきた鞄の中から、書類を彼の前へ差し出した。
「私たち、一か月後に王都から完全に引き揚げることにしたの」
レアンドロはすぐには答えなかった。
書類を手に取り、一枚ずつ目を通していく。
王都の一等地にある店舗。
港の巨大倉庫。
長年取引を続けてきた商人や工房。
仕入れ先から販売先まで、タラシア家が長い年月をかけて築いてきた商流についても記されている。
タラシア家が王都から撤退すれば、その空白へ入り込もうとする商人はいくらでも現れる。
だが、長年築かれてきた信頼に根ざした商売というものは、店と倉庫さえ手に入れれば、そのまま引き継げるような単純なものではない。
誰から仕入れるのか。
誰に売るのか。
どの工房へ仕事を回し、どの船主に荷を任せるのか。
一つ一つ、新しく関係を築こうとすれば、どれほどの時間と金、そして労力がかかるのか計り知れない。
その商人にとって財産とでも言うべき商売の足掛かりを、タラシア家の側から差し出すという。
イレーネは急かすこともなく、レアンドロが書類を読み終えるのを待っていた。
その間に茶へ手を伸ばし、一口飲む。
レアンドロにとって、悪い話であるはずがなかった。
だからこそ、すぐには頷かなかった。あまりにも話が良すぎる。
やがて最後の一枚まで目を通したレアンドロが、書類を机へ戻した。
「ずいぶんと気前のよい話ですな」
丸いめがねの向こうで、レアンドロの狐のような目が薄く開く。
「もちろん、ただじゃないわよ?」
イレーネは茶目っ気いっぱいにウィンクをする。
「それは当然ですが――」
思わぬ攻撃に、一瞬レアンドロも言いよどむ。
「言っとくけど、それ全部が手に入るとは思わないでね」
イレーネが茶器を戻しながら真顔で続けた。
「と、申しますと?」
「こちらも、私たちが王都を去ったあと、いくつの取引先が王都に残るのか分からないから。とっくに知ってるでしょ、アルカディアで大規模に人を誘致し始めてる件は。半分も残ればいいんじゃないかしら」
「半分……」
レアンドロはもう一度書類を手に取った。
先ほどよりも少し速く頁をめくっていく。
今度は内容を読むというより、頭の中で何かを計算しているようだった。
「なるほど。それでも十分なお話ではありますな」
「そう?」
退屈そうに首を傾げるイレーネに、レアンドロは確信を込めて頷いた。
「ええ。半分残れば十分。三分の一でも、私どもが一から地道に開拓することを考えれば大きい」
「ならよかった」
イレーネは他人事のようにあっさり言った。
「まあ、私たちはもう王都で商売するつもりはないもの。残った分は好きにしていただいて結構よ」
レアンドロの手が止まった。
「本当に、すべて引き払われるおつもりで? タラシア家が王都で築いてきたものを、すべて」
「もちろん」
イレーネは迷いなく頷いた。
「王都邸も引き払う。店も倉庫も、残す必要のないものは全部手放すわ」
「なるほど」
レアンドロは相づちを打ちながらも、まだ書類から目を離さなかった。
「それで、条件は?」
その声音はどこか緊張を孕んでいた。レアンドロの強かな商人としての嗅覚が、イレーネの真意を見定めようとしているかのようだった。
「もちろんあるわ」
イレーネはあっさり認めた。その口元には、どこか楽しむような微かな笑みが浮かんでいる。
「先に言っておくけど、私、商人同士の細かい駆け引きって苦手なの」
「それは初耳ですな」
レアンドロは肩をすくめて苦笑した。タラシア家の令嬢が駆け引きを苦手など、信じろと言う方が無理がある。
「だから、最初から全部話すわ。私たちが何をするのか。あなたに何を渡すのか。代わりに何をしてほしいのか」
レアンドロの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「それはありがたい。腹の探り合いほど、時間を浪費するものはありませんからな」
イレーネは再度鞄の中から地図を取り出し、机の上へ広げた。
「王都からは撤退する。でも、商売をやめるわけじゃない」
「当然でしょうな」
「サルヴァーノから入ってくる荷も、これからは王都には回さない」
レアンドロの視線が地図へ落ちた。
サルヴァーノと言えば、外洋政策が始まって以来、アルカディアを経由して王国へ持ち込まれるようになった高級な絹の産地だ。
中でもファイアーモスの糸で織られた布は、薄く、つやがあり、遮光性と防水性に優れている。
火に弱く耐久性に難はあるものの、その美しさから王国の上流階級では絶大な人気を誇っていた。
婦人たちは毎年のようにこぞってドレスを新調し、その艶やかさを競い合っている。
たしか三年前、目の前に座るイレーネ嬢が自ら指揮して航路を開き、王国へ持ち込んだものだったはずだ。
レアンドロは、イレーネが滑らした指先の場所に目をとめた。
「ネイモへ?」
「ええ。今まで王都へ回していた分を全部、ネイモへ持っていく」
イレーネの指が、そのまま地図の上を動いた。
「それと、アストラ川の方も引き揚げるわ」
「上流への便もですか」
「そう。全部ね」
王都からアストラ川を遡り、上流の町々へ荷を運んでいた航路。
タラシア家は、そこからも手を引く。
「代わりに、西アストラ川を使う」
レアンドロが地図を見つめた。
彼の頭の中で、新しい流通の流れが組み上がっていく。
「ネイモから上流へ向かう便を増やされる、と」
「ええ」
イレーネは頷いた。
「王都から引き揚げるのに、そこだけ残しても仕方ないでしょう?」
「それはそうですが……」
イレーネの白い指が、ネイモから西アストラ川を遡っていく。
これまで王都を起点としていた河川輸送が、ネイモへ移る。
決してすべての流通ではないが、それでもかなりの量が移ることになるはずだ。
それほどまでにタラシア家の輸送能力は群を抜いている。
そこへサルヴァーノからの荷まで集まってくる。
「これはまた、随分と思い切られましたな。王都の経済を干上がらせるおつもりですか」
「まさか? そんなつもりはありませんよ?」
イレーネは地図から顔を上げると、レアンドロの疑念を何食わぬ顔で、あっさりと受け流す。
しばしの間、レアンドロはイレーネと見つめ合うが、軽く肩をすくめた。
「まあ、私にとっては、ありがたい話ばかりですが」
「でしょう?」
レアンドロが苦笑する。
「王都の商人がサルヴァーノの品を欲しがった場合は?」
「売ってあげればいいじゃない」
「私が?」
「ええ。あなたの領地に来るんだもの。うちからは直接売らないけど、ペトラ商会含めて、ネイモの商人たちが王都に売りたいというなら融通するわよ」
レアンドロが笑った。
「手数料をいただいて?」
「商人でしょう?」
イレーネはわざとらしく、小首をかしげる。
「これはありがたい」
「でも、今までと同じ量が王国に来るとは思わないでね」
レアンドロの細い目がさらに細くなった。
「と、申しますと?」
「アルカディアでも使うし、セルカーンとの商売も増やすつもりだから。荒れそうだからと言って、流通すべてが止まるわけじゃないはずよ」
「なるほど」
確かにサルヴァーノから入ってくる荷のすべてがネイモへ向かうわけではない。
アルカディアで消費されるものもある。
別の土地へ向かうものもある。
王国へ流れる品の量そのものが、これまでより少なくなる。
一方、独自ルートで仕入れた情報によれば、セルカーン帝国の雲行きが怪しい。
ネイモから帝国へ向かう商いも、これまで通りとはいかなくなるかもしれない。
その時期に、西アストラ川の流通が太くなり、さらにアルカディアから新たな荷が入ってくる。
ネイモを治める領主としても、願ってもない話だった。
したがって、レアンドロは、特に不満そうな顔をしなかった。
「十分過ぎるくらいですな」
「でしょう?」
「王都でこれだけの商圏を譲っていただける。そのうえ、ネイモを通る荷が増え、西アストラ川を使った上流への流通まで太くなる」
レアンドロは地図を眺めながら笑った。
「これで不満を申し上げれば、商人仲間に笑われますな」
「なら、よかった」
イレーネはほっとしたように肩の力を抜き、ソファの背へ軽く身を預けた。
お読みいただきありがとうございます。
気に入っていただけましたら、ブックマーク・評価いただけると嬉しいです。




