第39話 灯台の夜
夜の河港に、ゆっくりと灯台の明かりが回っていた。鈍色に光る水面が、白光に照らされるたびにキラキラと反射する。
レオンは昼間の暑さをまだ少し残す鉄の欄干に肘をつき、眼下の港を眺めていた。
夜風が運ぶ潮の香りが鼻腔をくすぐる。
係留された船のマストが、規則正しい間隔で軋む音を立てている。
ここには昔から、ときどき来る。
嫌なことがあったとき。
考えを整理したいとき。
何も考えたくないとき。
港を出入りする船を眺めながら夜風に吹かれていると、不思議と頭の中が静かになった。
今夜も、そうだった。
王太子による、あの突然の婚約破棄の宣言から数日たっているのに、あの日の夕方に会ったイレーネの顔が、どうにも頭から離れない。
何をしていてもふとした瞬間に彼女の表情がよみがえった。
いつもの明るく太陽のような笑顔ではなかった。
ちゃんと返事をしてくれたが、その瞳の奥には深い沈みが見えた。
かといって悲しみに暮れて屋敷に引きこもってるわけでもない。
むしろ、いつものように忙しくて動き回っているらしい。
――タラシア家を切るとは。王太子もバカなことをしたものだ。
国家の要を失う愚行に、怒りよりも呆れが勝る。
同時に、それを止められた立場にない自分への苛立ちも、少しだけ混じっていた。
レオンは自嘲気味に軽くため息をつく。
何気なく小高い丘の上に広がる王都へ目を向ける。
最も高い場所には、王城が魔晶灯の灯りに照らされ夜空に浮かび上がっている。
王立学園の鐘楼も小さく見える。
そして夜の街には無数の明かりが浮かんでいる。
その一つひとつの下に、それぞれの夜があるのだと思うと、少しだけ、熱くなりかけてた気持ちが安らぐ。
その中に、タラシア家の王都邸が見えた。
二階の窓が開いている。
窓辺に、見慣れた鮮やかな赤い髪が見えた。
イレーネだ。
室内には何人かいるらしい。
魔晶灯の明かりに照らされながら卓を囲み、何やら話している。
しばらく眺めていると、誰かが何かを言った。
イレーネが呆れたように肩をすくめる。
そして、笑った。
鈴を転がすような明るい声が夜気の中に響く。
彼女がいつもの笑顔に戻っていることが分かった。
少なくとも、あの日に見た笑顔とは違っていた。
レオンは黙ってその姿を見つめていたが、やがて肩の力を抜いた。
欄干にかけていた肘からも、いつの間にか力みが抜けていた。
「……元気そうだな」
それだけ呟くと、タラシア邸から視線を外した。
イレーネをもうしばらく見ていたいと、後ろ髪を引かれるが、無理にでも気持ちを切り替えた。
今の時点では、自分がこれ以上心配する必要などないのだと言い聞かせるように。
それでも、窓辺の明かりが目の端に残る感覚だけは、しばらく消えなかった。
灯台の光が、再び夜の河港をゆっくりと横切っていった。
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