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アルカディア建国記 ー女提督は静かに切れる 婚約破棄から始まる独立戦記ー  作者: 尾道 汀
第2章 王都撤退への布石

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第38話 笑わなくなったソフィア

王立学園を卒業したソフィアは、フィリッポスの命で彼の秘書として働くため財務局に入った。


最初に任されたのは、各所から毎日のように届けられる資料の整理と膨大な予算の計算だった。

幸いなことに、それは母の帳簿を読み込んできたソフィアにとって、量はともかく、簡単な仕事であった。

淡々と数字をまとめ、帳簿を確認し、見落とされた間違いを見つける。


やがて、多くの資料を読んでいるうちに、課題や改善策に気づくことが増えた。


ここを削ればよい。

ここには、むしろ直ちに予算を回した方がいい。

今は赤字でも、数年後には大きな利益になる。

物流を整えれば長期的に税収が増える。

新しい工房を誘致すれば、町は活気づき雇用も生まれる。


それらは、父からは要求されてはいなかったが、よかれと思い、自主的に意見を書き添えた。

しかし、父はそれを見て眉をひそめた。


「余計なことをするな」


「ですが、このまま一律に予算を削減するより、こちらへ投資した方が――」


「ソフィア」


地を這うような低い声だった。


「お前はまだ何も分かっていない」


「……はい」


「これ以上、私を煩わせるな。言われたことだけやりなさい。他人の迷惑になる」


それ以降、ソフィアは父に対し何も言わなくなった。

ただ、求められた以上の資料は作った。

必要な数字を揃えた。

父が会議で使いやすいように、考え得る選択肢を並べた。

投資した場合の収益予測も添えた。

必要なら、その根拠となる過去の資料も用意した。

フィリッポスはそれを持って会議へ向かった。

そして、大きな成果を上げた。


「さすがは財務大臣です」


「思い切った、実に見事な判断でしたな」


「このところ、財務局の動きが良い。大臣の先見の明には恐れ入る」


などと、父を称賛する声を聞くことが増えた。

父も機嫌がよかった。


「最近、ようやく文官どもも私の考えを理解するようになってきた」


ソフィアは、


「そうですね」


とだけ、感情の失せた声で答えた。


やがて、仕事は増えた。

一つ終われば、二つ渡された。

二つ終われば、四つになった。


「これもやっておけ」


「はい」


「明日までだ」


「分かりました」


「まだ終わっていないのか。手際が悪いぞ」


「申し訳ありません」


帰宅する時間は少しずつ遅くなった。

夜になり。深夜になり。

ある日、帰るのが面倒になった。


王城には、夜勤の官吏や緊急時のための仮眠室がある。

最初は一晩だけだった。


次は着替えを置き、その次は洗面道具。

本を数冊。小さな鏡。


気がつけば、自分の部屋と呼べるほどに必要なものはほとんど揃っていた。


「ソフィア様、今日もお泊まりですか?」


一回りほど年上の文官の青年が心配そうに尋ねた。


「ええ。まだ少し、片付けなければならない仕事が残っているから」


「ですが、昨日も一昨日も……」


「大丈夫よ」


ソフィアは淡々と答えた。

文官は何か言いたそうにしていたが、結局何も言わなかった。

代わりにしばらくして、机の端に温かい茶が置かれた。


「……ありがとう」


「いえ」


それ以上、何も言わない。

そういう、言葉にしない優しさをくれる者は、一人ではなかった。


遅くまで残っていると、誰かがどこからか調達した食事を置いていった。

大量の資料が届けば、頼んでもいないのに仕分けを黙々と手伝ってくれる者がいた。

体調を崩せば、薬を持ってくる者もいた。


彼らは何も聞かなかった。

中にはデルフィ家の事情を知る者もいただろうが、皆一様に沈黙を守ってくれた。

ソフィアもまた、何も話さなかった。


◇


家に帰るより、王城の仮眠室で眠る方が落ち着くようになって、どのくらいたっただろうか。


王城にすら、アンナが顔を出すようになった。

父を訪ねてくることもあれば、王城で開かれる茶会や催しに参加することもある。

明るく人懐っこいアンナは、すぐに王城で働く者たちとも顔見知りになった。


ある日の午後。

ソフィアが資料を抱えて廊下を歩いていると、前から聞き慣れた声がした。


「お義姉様!」


アンナだった。

何人かの若い文官たちと一緒に立っている。

ソフィアと一緒に深夜まで仕事をする実務派の文官ではなく、見栄えもよく、家柄にも恵まれた若い文官たちだった。


ソフィアは足を止め、アンナをじっと見つめた。


「お父様に会いに来たんです」


アンナは話しながら、ソフィアの姿を上から下まで眺めた。


「お義姉様、今日もその服なんですね」


ソフィアは無言のまま自分の服を見る。

飾り気のない、袖口が少しインクで汚れたいつもの仕事着だった。


「この服がどうかした?」


「いえ。ただ、この前も似たような服だったから」


アンナがくすりと、周囲に聞こえるような声で笑う。


「お義姉様って、昔から服に全然興味がないんです。せっかく綺麗なのに、もったいないですよね」


周りにいた文官の一人が困ったように笑った。

別の一人は、特に興味もなさそうに黙っている。


「仕事をするのに困らなければ、これでいいわ」


「ほら、すぐそう言うんです」


アンナは何がそんなに楽しいのか、上機嫌そうだった。


「最近なんて、家にもほとんど帰ってこないんですよぉ」


若い文官の一人が、怪訝そうな目をソフィアに向ける。


「そうなのですか?」


ソフィアは何も答えなかった。

応える必要性もない。

アンナが小首をかしげながら、頬を膨らまして、甘ったるい声音でその文官に告げる。


「一昨日も、その前の日も帰ってこなかったんですの」


「アンナ」


「お母様も心配してるんですよ。女の人が何日も家に帰らないなんて、あまりよくないでしょう?」


悪意があるような言い方ではなかった。

本当に姉を心配している、妹のように聞こえる。

だからといって、いちいち他家の者に告げる者でもない。


「仕事中よ」


ソフィアは冷ややかに、一言だけ応えた。


「分かってます」


アンナはにっこりと微笑む。


「だから、たまにはちゃんと家に帰ってきてくださいね。みんな心配してるんですから」


ソフィアはそれ以上は応えず、黙って事務的に一礼し、再び歩き出した。

背後では、すぐにアンナと文官たちの弾んだ話し声が再開された。


「ソフィア様は少し気難しいですから、アンナ様も苦労なさいますね」


という、身勝手な同情の言葉が背中に突き刺さる。


それだけなら、別に大したことではなかった。

けれど、似たような出来事が度々起こるようになった。


「お義姉様、また昨日も泊まったんですか?」


「その服、この前も着てませんでした?」


「ちゃんと食事してます?」


「本当に、お仕事しか興味ないんだから。もっと淑女らしくすればいいのに。もったいないわ」


アンナはいつも花のほころぶような可憐な笑顔で話していた。

決してソフィアを悪く言っているようには聞こえない。

むしろ、少し変わった偏屈な姉を、健気にも、本気で心配する心優しい妹に見えた。


――周囲の、何も知らない男たちの目には。


学生時代と全く同じことが、今度はこの王城という大人の社会で繰り返されていた。

だからこそ、ソフィアからは何も言うことはなかった。

表面的に見れば、言われていることのほとんどは事実だった。


家に帰っていない。

服装にもほとんど気を使わない。

一日の大半を仕事に費やしている。

家の者も皆、心配している。

聞く耳を持たない。


数え上げれば枚挙に暇がない。

だが、それらを何度も耳にするうちに、周囲の見る目が少しずつ変わっていった。


「ソフィア様、今日もお泊まりですか?」


「ええ」


「本当にお好きですね、仕事が。たまには家に帰らないと、ご家族に泣かれちゃいますよ」


以前なら心配そうに尋ねていたはずの文官が、今は、冗談めかして軽く扱う。

別の部署へ書類を届けに行けば、初めて話す相手から、


「噂は聞いております。財務局に住んでいらっしゃるとか。名家のご息女とはいえ、共有の場を自室のように扱うのは、いかがなものでしょう」


と忠告されることもあった。

かといって、いちいち、気にしてられない。

ソフィアは無言のまま、表情を一つも変えずに書類を差し出し、取り合うことはなかった。


もちろん、王城でも、誰もが噂話に流されていたわけではない。

学生の頃と同様に、長く一緒に仕事をする中で、苦労を分かち合ってきた者たちに限れば、その態度は以前と変わらなかった。


ある夜、大量の資料を前にソフィアが一人で仕分けをしていると、横から伸びてきた手に何冊か持っていかれた。

顔を上げると、以前、深夜のデスクに茶を置いてくれた年上の文官だった。


「何をしているの?」


「見れば分かるでしょう。仕分けの手伝いです」


「頼んでおりませんが……」


「まあ、そうですね。大量の仕事を抱えた同じ職場の仲間を手伝う。どこかおかしいでしょうか?」


文官はそのまま隣の机に座った。


「それは西部の分です?」


「はい。ソフィア様は今やってる東部の分を終わらせてください」


「……分かりました」


しばらく、紙をめくる音だけが続いた。

やがて文官が顔も上げずに、あからさまに聞こえる声でつぶやく。


「私は、ソフィア様がここに泊まっていても別に困りませんけどね。仮眠室が足りなくなるほど熱心な貴族様は多くありませんし」


ソフィアの手が止まった。


「何の話?」


「別に。ただの独り言です」


文官は資料をめくった。


「早く終わらせましょう。今日こそ帰って、息子と遊んでやりたいので」


「そうね」


ソフィアの口の端が少しだけ上向いていた。


変わらない者がいた。

何も気にしていない者もいた。

アンナの話を面白がる者もいれば、噂などに惑わされず、本当にソフィアを心配している者もいる。


ただ、以前にはなかった、奇異なものを見る視線が、少しずつ、しかし確実に職場の至る所に混じるようになった。


廊下を歩いていると、自分の飾り気のない服装が気になる。

仮眠室へ向かうとき、誰かに見られていないか、また何か言われるのではないかと、


小さな懸念が頭の片隅を常によぎる。

以前なら何とも思わなかったことだった。

ただ純粋に、仕事に向き合えていたはずだった。


ここには仕事がある。

自分を頼ってくれる人もいる。


少なくとも、ここには自分の居場所があると思っていた。

けれど、その王城にまで、少しずつ、歪んだ実家の空気が入り込んできた。


家にも帰りたくない。

王城にいても落ち着かない。

一番に頼りたかったイレーネとは、もう長いことゆっくり話していない。


では、自分はどこにいればいいのだろう。

ソフィアには分からなかった。

広大な王都のどこを見渡しても、彼女の心を休められる場所は残されていなかった。


誰かに、ここから連れ出してほしい。

どこか、自分のことを何も知らない場所へ連れていってほしい。

そんなことを考えたこともあった。

けれど、誰かにそう願うことすら、いつしかしなくなった。


やがて、考えることそのものをやめた。

誰かに分かってもらおうとすることも、何かを期待することも。


嫌なことを言われても言い返さず、何かを失っても惜しむ顔を見せず、ただ求められた仕事だけを淡々とこなした。

そうしているうちに、笑うことも、怒ることも、悲しむことも、少しずつ表に出なくなっていった。

心に幾重もの厚い氷を張り巡らせるように。


いつしかソフィアの顔からは、表情が消えていた。


◇


窓を打つ激しい雨の音に、ソフィアはゆっくりと瞬きをした。

いつの間にか、雨脚が一段と強くなっていた。

王都の灯りが、濡れた窓ガラスの向こうでぼんやりと滲んでいる。


どれほどの時間、こうして窓の外を眺めていたのだろう。

ソフィアにも分からなかった。


振り返る。

久しぶりに戻った自分の部屋。


机もある。

本棚もある。

寝台もある。


けれど、かつて母からもらった、あの宝石箱は失われてしまった。

真珠の髪飾りも既にない。

身だしなみを整えていた、小さな鏡すらどこにもない。


一つずつアンナへ渡し、いつの間にか何もかもがなくなった部屋。

ソフィアはしばらく室内を眺めた。


不思議なものだった。

ここは、自分が十年以上使ってきた部屋のはずなのに、こんなにも広かったのだろうか。

インクの匂いの染みついた王城の狭い仮眠室の方が、よほど自分の部屋らしく思える。


窓際から離れ、冷たい寝台へ腰を下ろした。

柔らかい。

王城の簡素な寝台とは比べものにならないほど、上質な絹の敷布だ。

それなのに、どうしても体が落ち着かなかった。

ソフィアは両手を膝の上に置いた。


自分は一体何をしたいのだろう。

これから、どうしたいのだろう。

考えてみても、何も浮かばない。


明日になれば王城へ戻る。

残してきた膨大な仕事を片付ける。

父に言われた通りの資料を作る。

また夜になれば、あの狭い仮眠室で眠る。


それだけだった。

ただそれだけの、色のない日常がこれからもずっと続く。


イレーネは、アルカディアへ帰ってしまうのだろう。

アレクシオス殿下は、王都にあるタラシア家の地位も権益も、すべて返せと言ったと聞いている。

なら、イレーネはすべてを投げ打ってでも返す。


ソフィアには確信があった。

あの子は、苛烈なほどに誇り高い人だ。

返せと言われたものだけを返して、これまでと同じように王都で暮らし続けるような惨めな真似はしない。


間違いなく、人も、物も、仕事も。

タラシア家のものは何もかも塵一つすら残さず引き揚げて、アルカディアへ帰る。

そして、一度帰れば、もうここには戻っては来ない。


もしかしたら、この先の人生で、二度と会えないかもしれない。

そこまで考えて、押し殺していたはずの胸の奥が、抉られるかのように痛んだ。

痛みに耐えるように、ソフィアはゆっくりと横になった。


目を閉じる。

十二歳の春。

赤い髪の少女が、自分に向かって笑っていた。

――満点なんてすごいわ!


あの日から、ずっと一緒だった。

どれほど孤独な夜も、あの琥珀と赤の二色が自分を支えてくれた。

それも、もう終わるのだろうか。

ソフィアは目を開けなかった。


やがて部屋には、彼女の心を置き去りにしたまま、冷たい雨音だけが残った。

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