第37話 親友
本日2話投稿していますので、この前に1話先に上がっています。
それでも、学園へ行けばイレーネがいた。
「ソフィア!」
遠くからでも、その燃えるような赤い髪はすぐに分かる。
「今日、放課後に港へ行かない?」
「またなの?」
「新しい貿易船が入港するらしいって聞いたの!」
「私、船には興味ないって、いつもいってるよね」
「見たらきっと興味出るわよ」
「出ないと思うわ。……っていうか、同じこと毎回言ってるんだけど」
猫のようにころころ変わる琥珀の瞳を見ると、ソフィアは笑うことができた。
家にいるより、学園にいる方がずっと気楽だった。
イレーネだけではない。
二年間を共に過ごした友人たちもいた。
母を亡くしたことも、新しく継母ができたこともすべて知っている友人たちは、以前と変わらずソフィアに接してくれた。
だから、まだ笑うことができた。
まだ、大丈夫だと自分に言い聞かせることができた。
そんな不安定ながらも、なんとかやっていく日々が続いていたある日。
今度は、イレーネが学園へ来なくなった。
一日。
二日。
三日。
いつもなら教室に入る前から聞こえてくる明るい声がない。
主を失ったイレーネの席を見るたび、ソフィアの胸は冷たい不安で満たされていった。
事情をようやく知ったのは、三日目の午後だった。
イレーネの祖父、テミストクレス・タラシアが亡くなった。
前タラシア家当主。
長く王国海軍に関わり、船の技術革新に大きく貢献した人物。
そして何より、イレーネが幼い頃から誰よりも慕っていた祖父だった。
イレーネが再び学園へ姿を見せたのは、それから何日か経ってからだった。
「おはよう、ソフィア」
いつもと同じ声に聞こえた。
「おはよう、イレーネ」
教室内にいる他の友人たちにも、不在を詫びながら、いつものように明るく声を掛けていた。
一見すると、いつもと変わらぬ笑顔だった。
友人たちに囲まれれば屈託なく笑い、話しかけられればいつもの調子で朗らかに答える。
けれど、ソフィアにはそれらが、決して心からのものでないことが分かっていた。
少し前の自分も、まったく同じことをしていたから。
放課後。
授業が終わると、教室から生徒たちが次々と出ていった。
イレーネもいつものように鞄を手に取り、席を立とうとする。
「イレーネ」
「なあに?」
「今日は、どこにも行かないで?」
イレーネが少しだけ驚いたように目を見開いた。
「……どうして?」
「今日はここにいよ?」
しばらく、イレーネは何も言わなかった。
やがて、張り詰めていた糸がふっと緩んだように控えめに微笑んで、小さな声で応えた。
「……そうね」
二人は窓際の席に並んで座って、窓の外に広がる学園の中庭を眺めていた。
遠くを望めば、茜色に染まり始めた河口の先に灯台が小さく見えた。
何を話すでもなかった。
窓の外では、他の生徒たちが中庭を行き交っている。
遠くから楽しげな笑い声も聞こえてきた。
ソフィアは何も尋ねなかった。
イレーネも何も話さなかった。
ただ、そこにいた。
どれくらいそうしていただろう。
短かった椅子や机の影が教室の床に長く伸びていた。
「おじい様ね」
不意にイレーネが口を開いた。
「うん」
「最後まで、船のことを話してたわ」
ソフィアは黙ってイレーネの言葉に耳を傾けていた。
「もう寝てなきゃ駄目だって、みんな言ってるのに。今度の船はどうするとか、あの航路はもっと西まで行けるはずだとか」
少しだけ、イレーネが愛おしそうに苦笑した。
「本当に、いつだって船のことばっかりで……」
「イレーネも同じじゃない」
「私、あそこまでじゃないわよ」
「どうかしら」
「ひどい」
二人で少しだけ笑った。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
「……もっと、教えてもらいたかったな。もっと、話したいこともあった。もっと一緒に行きたいとこだって。もっと……」
イレーネの声がだんだんと小さくなっていく。最後は言葉にならず、吐息のように消えていく。
ソフィアは何も言わなかった。
励ます言葉など思いつかなかった。
だから、そっとイレーネの冷えた手に自分の手を重ねた。
かつて、自分がそうしてもらったように。
イレーネはその重ねられた手を見た。
そして、ゆっくりと握り返した。
イレーネは声を出して泣いたりはしなかった。
ただ、教室に差し込む夕日が、静かに頬を伝う大粒の涙に反射する。
二人はそのまま、誰もいなくなった教室で窓の外を眺めていた。
◇
それからしばらくの間、二人の関係は変わらなかった。
学園へ行けばイレーネがいる。
イレーネに強引に引っ張られ、ソフィアが呆れながらついていく。
時にはつまらないことで、言い争いもした。
くだらないことで笑い合うこともあった。
家にいるときと違って、学園にいる時間だけはソフィアにとって、昔とそれほどひどく変わらなかった。
けれど、十六歳を迎える頃。
少しずつ、それも変わり始めた。
イレーネが、王太子アレクシオスの婚約者に指名された。
「おめでとう、イレーネ」
「ありがとう」
答えたイレーネの顔は、いつもと変わらなかった。
婚約したからといって、イレーネ自身が大きく変わったわけではない。
もともとタラシア家の令嬢として必要な教育は受けている。
王太子の婚約者になったからといって、今さら一から礼儀作法を学ぶようなこともなかった。
――それが実践できるかは別としても。
ただ、同じ頃、イレーネは国王から王国の外洋政策に関わるよう命じられた。
西の外洋へ航路を伸ばす。
新たな交易相手を探す。
そのために必要な船を造り、人を集め、航路を調べる。
かつて祖父テミストクレスが夢見ていたものでもあった。
イレーネは夢中になった。
ソフィアが母の軌跡をたどったように、亡くなったテミストクレスの残したものを追いかけたかったに違いない。
海軍へ顔を出し、海軍工廠へ足を運び、船乗りや商人たちから話を聞く。
古い航海記録を集め、海図を広げ、風や海流について調べる。
王都の港に新しい船が入ったと聞けば、自分の目で確かめに行った。
以前から船は好きだった。
けれど、それまで趣味のように追いかけていたものが、今度は王命を受けた重大な仕事になった。
学園へ来ない日も増えた。
来ても、授業が終わればすぐに、話をする間もなく王城へ向かう。
それでも、顔を合わせれば何も変わらなかった。
「ソフィア!」
イレーネは変わらず、太陽のように明るく笑う。
「今度休みが取れたら、一緒に街へ行きましょう」
「ええ」
「約束よ」
「分かったわ」
けれど、その休みはなかなか来なかった。
一度流れ。
二度流れ。
そのうち、約束をすることも減っていった。
イレーネが悪いわけではない。
ソフィアにも痛いほど分かっていた。
だからこそ――
会いたい。
寂しい。
たまには昔みたいに一緒にいたい。
けれども、そんなことを口にすることは出来なかった。
忙しいイレーネを困らせたくなかったのもあった。
何より、ソフィアは昔から、誰かに何かを求めることが苦手だった。
家に帰れば、ベレニケとアンナがいる。
父は相変わらず自分にはほとんど関心を示さない。
学園で友人たちと過ごす時間も、卒業が近づくにつれて少しずつ減っていった。
そして、卒業の日が来た。
何者でもなく、ただの少女でいられる時間は、そこで終わった。
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