第36話 失っていく物
本日、18:00にもう1話投稿します。
最初にソフィアの部屋からなくなったのは、小さな宝石箱だった。
ある日の午後。
ソフィアが机に向かって帳簿を広げていると、ノックもそこそこにアンナが部屋を訪ねてきた。その後ろにはベレニケもいる。
「お義姉様、何をしているんですか?」
「帳簿を見ているの」
「帳簿?」
アンナは不思議そうな顔をしたが、すぐに興味を失ったらしい。
部屋の中を品定めするように見回し、机の端に置かれていた小さな箱に目を留めた。
「まあ、素敵」
何のためらいもなく手に取ったのは、淡い青色の石が嵌め込まれた宝石箱だった。
「綺麗……」
蓋を開けたり閉じたりしながら、楽しそうに眺めている。
「お義姉様、これ、いただいてもいい?」
ソフィアのペンを握る手が止まった。
「それは……」
亡き母から十二歳の誕生日にもらったものだった。
「お母様からいただいたものだから、あげるわけにはいかないわ」
「あ……」
アンナの顔からあからさまに笑みが消えた。
「ごめんなさい。知らなくて……」
名残惜しそうに、宝石箱を机へ戻す。
――カタン。
机に当たる音が、妙に耳についた。
「アンナ」
ベレニケがやさしく娘の名を呼んだ。
「人の物を欲しがってはいけませんよ」
「はい……」
ベレニケは娘を庇うように肩へ手を添えると、ソフィアにも聞こえるよう、ことさら優しい声で続けた。
「仕方ないわ。ソフィアは昔から何不自由なく育ってきたのだもの。あなたとは違うのよ」
「ごめんなさい、お母様」
「謝らなくていいのよ。あなたにも、これから少しずつ揃えてあげましょうね」
目の前の母娘のなんともいえぬやりとりに、ソフィアは口を引き締めうつむく。
そのとき、開いたままの扉の向こうから声がした。
「何の話だ?」
フィリッポスだった。
部屋の中へ目を向ける。
困ったような仕草で、ベレニケが振り返った。
「大したことではありませんわ。あなた。アンナが、ソフィアの宝石箱を気に入ってしまったみたいで」
フィリッポスは億劫そうに机の上に視線を向けた。
「それか?」
「ええ。でも、亡くなられたダフネ様から十二歳の誕生日にもらったものだそうですから、諦めるように言ったところです」
「お母様の形見だったなんて、知らなかったの。お義姉様、本当にごめんなさい」
アンナも目に涙を浮かべながら、慌てて言った。
「もう欲しいなんて言いません」
その言葉を聞いて、フィリッポスが冷淡に言い放った。
「それくらい、アンナに譲ってやりなさい」
ソフィアは信じられない思いで父の方に振り向く。
「お父様……。これは、お母様の……」
「宝石箱の一つくらい、また新しいものを買えばいいだろう」
「あなた」
ベレニケがフィリッポスの腕にそっと触れた。
ソフィアをちらりと見やるも、その口元には、ごく薄い笑みが浮かんでいた。
「無理に取り上げるようなことをしてはいけませんわ。ソフィアにとっては何よりも大切な物でしょうから」
「ソフィアには他にもいくらでもある」
フィリッポスはソフィアの気持ちなど気にも留めなかった。
むしろ、諫めるかのように言葉を続けた。
「アンナはこれまで、お前のような暮らしができなかったんだ」
「でも……」
「お前は姉だろう。少しくらい譲ってやりなさい」
ソフィアは宝石箱を見る。
十二歳の誕生日。
母が自分で選んでくれたものだった。
箱を渡しながら、少しだけ心配そうに笑っていた母の顔を今でも覚えている。
――気に入ってくれるといいんだけど。
「ソフィア」
咎めるような、父の声がした。
ソフィアは宝石箱から目を離した。
「……はい」
アンナの顔が一転、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます、お義姉様!」
ソフィアの言葉も待たず、宝石箱を両手で抱え、嬉しそうに笑っている。
「よかったわね、アンナ」
「はい、お母様!」
フィリッポスも満足したように頷いた。
「姉妹なのだから、仲良くしなさい」
「……はい」
ソフィアは微笑んだ。
胸を抉られるような痛みに堪え、母から教えられたとおりに。
人前では、何があろうと、いつでもきちんと微笑む。
それが貴族の娘のたしなみなのだと。
三人が仲睦まじく部屋を出ていったあと、ソフィアは机へ目を向けた。
宝石箱が置かれていた場所だけが、ぽっかりと空いている。
そのすぐ隣には、母の帳簿が開いたまま残されていた。
ソフィアはしばらく何もできず、宝石箱の消えた空白と、その隣に残された母の帳簿を見比べていた。
やがて、力が抜けたように椅子へ腰を下ろす。
帳簿を自分の前へ引き寄せ、インクの乾いた文字を指先でなぞりながら、沈黙の中で続きを読み始めた。
次は真珠のあしらわれた髪飾りだった。
その次は、仕立てたばかりでほとんど袖を通していなかったドレス。
「お義姉様には、こちらの方がお似合いでしょう?」
「アンナは明るい色が似合うから、そのドレスを譲ってあげて頂戴」
「少し借りるだけですから、いいでしょう?」
一つ一つは、大したものではなかった。
少なくとも、父にとっては。
ソフィアが何かを惜しめば、フィリッポスは決まって同じようなことを言った。
「お前には他にもあるだろう」
「姉なのだから、手本を示せ」
「アンナにも少しは譲ってやりなさい」
最初のうち、アンナはそのたびに、上目遣いで怯えるようにソフィアへ尋ねていた。
「これ、いただいてもいいですか?」
けれど、それも少しずつ変わった。
「これ、私の方が似合うと思いません?」
やがて、尋ねることさえなくなった。
ついには、気に入ったものがあれば黙って持ち去り、事後報告すらしなくなった。
ある日ソフィアが学園から戻ると、しまってあったお気に入りの髪飾りがなくなっていた。翌日、アンナが当然のような顔をして、それをつけて学園へ来る。
「それ……」
「あ、これ?」
アンナは自慢げに髪に触れ、悪びれもせずにっこりと笑った。
「お母様が、私の方が似合うって。お義姉様もそう思うでしょ?」
ソフィアは何も言わなかった。
言っても、最後には父がアンナのものにするのは目に見えていた。
それなら最初から何も言わない方がいい。
そんな理不尽なことが何度も続いた。
そして学園でも、少しずつ、しかし確実に何かが変わり始めた。
「ソフィア様って、妹にずいぶん冷たいのね」
ある日、廊下ですれ違った令嬢のひそひそ話が、嫌に鮮明にソフィアの耳に入った。
どきりと心臓が跳ね、足が止まる。
「聞いたわ。アンナ様がずっと苦労していたのに、家に来てからも全然よくしてあげないんですって」
「でも、お姉様なのでしょう?」
「普通なら、もう少し可愛がってあげるものじゃない? かわいそうなアンナ様――」
小さな、棘のある笑い声が遠ざかっていく。
ソフィアはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
誰がそんな話をしたのか。
考える必要もなかった。
だからといって、いちいち訂正して回る気にもなれなかった。
その日の授業が終わる頃には、無理矢理にでも心を落ち着けていた。
家へ帰れば、机の上には帳簿が待っている。
領地から届いた報告書もある。
明日までに確認しなければならない支払いもあった。
やることはいくらでもある。
ソフィアは一つずつ、それを片づけた。
物がなくなっても。
何を言われても。
母から引き継いだ仕事だけは、なんとしてでも着実に進めた。
そしていつしか、デルフィ家の使用人たちは、家の金や領地のことで困ったことがあると、十四歳の少女の部屋を訪ねるようになっていた。
「ソフィアお嬢様、少々よろしいでしょうか」
「ええ。入って」
ソフィアは帳簿から顔を上げる。
その顔に、以前のように感情が表れることは、もう少なくなっていた。
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