第35話 新しい家族
母の死から、まだそれほど日も経っていなかった。
屋敷の中には、まだ葬儀の名残があちこちに残っている。
そんなある日、父から話があると呼ばれ、ソフィアは応接室へ向かった。
何の話だろうと、いぶかしげに扉を開ける。
父の隣に、見知らぬ女性が座っていた。
美しい女性だった。
華やかな服を身につけ、薄い金髪を綺麗に結い上げている。母とはまるで違う雰囲気の女性だった。
その隣には、まだ幼さの残る少女がいる。
ソフィアが入ってくると、二人の視線が一斉にこちらへ向いた。
フィリッポスが淡々と告げた。
「紹介しておこう。ベレニケだ」
女性が自信にあふれた所作で礼をし、微笑む。
「初めまして、ソフィア」
「……初めまして」
ソフィアは戸惑いを隠せないまま、黙って頭を下げた。
なぜこの人を自分に紹介するのだろう。
その答えは冷酷にも、すぐに父の口から告げられた。
「今日から、この家で一緒に暮らすことになる」
ハッとして、ソフィアが顔を上げる。
「一緒に……?」
「ああ。私たちは結婚する」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
父と、目の前の女性が結婚する。
その意味を理解してからも、すぐには言葉が出てこなかった。
母が亡くなってから、まだそれほど経っていない。
母の部屋には、今も読みかけの本が置かれている。
作りかけのトンボ玉だって、あの日のままだ。
なのに、父はもう別の女性と結婚するという。
「そして、この子がアンナだ」
父が隣の少女を見る。
「お前の妹になる。学園にも通わせる」
アンナは椅子から立ち上がると、可愛らしくスカートをつまんだ。
「初めまして、お義姉様」
「……初めまして」
ソフィアは少女を見た。
淡い色の髪。まだ丸みの残る頬。
自分より、二つほど幼い。
その瞬間、別の疑問が浮かんだ。
――二つ?
ソフィアはもう十四歳になろうとしていた。
もう、何も知らない無垢な子供ではない。
目の前にいる少女の年齢。
母と父が結婚していた年月。
そして、このベレニケという女性がアンナの母親だということ。
考えるまでもない。導き出される答えは一つしかなかった。
両親の仲がよくないことは、ソフィアも幼い頃から知っていた。
父と母が言い争っているところを見た記憶はほとんどない。
けれど、二人で楽しそうに話しているところを見た記憶もなかった。
父と母の結婚は、そもそも互いに望んだものではなく、ただの契約だった。
母ダフネは、東方の防衛拠点バルタラを中心に商業を営む、地方貴族の娘だった。
幼い頃から数字に強く、商売にも才覚を見せていたという。
本来なら、そのまま実家の仕事を支えるはずだった。
だが、ある日、父親からフィリッポスとの縁談を告げられた。
相手は将来を期待された貴族の青年。
家同士にとって悪い話ではなかった。
母はそれを受け入れ、デルフィ家へ嫁いできた。
一方、父にも、かつて望んだ相手がいた。
身分の低い女性だったため結婚を許されず、祖父の説得を受けて母との婚姻を受け入れた。
だから二人は、最初から夫婦というより、同じ家に暮らす他人のようだった。
それでも母はデルフィ家の人間として家を切り盛りし、父を支え、ソフィアを育てた。
父が母を愛していないことも。
母がそれを知っていたことも。
ソフィアはずっと前から分かっていた。
だから、ベレニケが何者なのかは容易に想像がついた。
けれど――
もう一度、アンナを見る。
十二歳。
母と父が、まだ形だけでも夫婦だった頃に生まれた子供。
父が母との婚姻後も、ベレニケとの関係をずっと続けていたなどとは、さすがに考えたこともなかった。
ましてや、子供までいたなんて。
簡単な計算だ。
昔から、母譲りの明晰な頭脳を、どこか誇らしく思っていた。
だが、このときばかりは皮肉にも、その頭の良さが恨めしかった。
「ソフィア?」
怪訝そうな父の声がする。
「どうした」
「……いえ」
ソフィアは静かに視線を落とした。
「何でもありません」
もう一度、アンナを見る。
少女は何も知らないような無垢な顔で、こちらを見ていた。
ソフィアはそれ以上何も言わなかった。
その日から、デルフィ家には新しい家族が増えた。
◇
ベレニケとアンナが屋敷に来て、しばらく経った頃だった。
早々に母の部屋は跡形もなく片付けられ、新しい主のために、やけに派手で品のない装いに変えられてしまっていた。
日々何をするでもなく、空虚に過ごしていたある日、学園から戻ったソフィアが自室で着替えていると、遠慮がちに扉を叩く音がした。
「お嬢様、少々よろしいでしょうか」
「どうぞ」
入ってきた家令は、何冊かの帳簿と書類の束を抱えていた。
「どうしたの、それ」
「ダフネ様が管理されていたものです」
「見せて」
机の上に置かれた帳簿を開く。
見慣れた几帳面な母の字が並んでいた。
食料品や薪の購入費、使用人たちへの給金、商人への支払い。
ほかにも、領地から上がってくる収入や、デルフィ家が持つ資産について細かく記されている。
数字の横には、小さな文字で注意書きまで残されていた。
「これ、お母様が全部?」
「はい。もちろん私どももお手伝いしておりましたが、最後にすべてを確認されていたのはダフネ様でした」
ソフィアは何枚かページをめくった。
「ベレニケ様は?」
「一度、お伺いしたのですが……」
家令が困り果てたように言葉を濁した。
「こういった細かいことは分からないので、旦那様にお任せすると」
「お父様は?」
「旦那様にもお持ちしました。ただ、今はお忙しいので後にするようにと……」
ソフィアは帳簿へ目を落とした。
最後に母が書き込んだ日付から、すでにかなりの日が過ぎている。
その間にも当然、家は動いている。
食料は毎日届くし、薪も使う。
使用人には給金を払わなければならない。
領地からは報告が届き、商人は代金を受け取りに来る。
母が死んだからといって、家の時間まで止まってくれるわけではない。
「この支払いは?」
ソフィアが一枚の請求書を指した。
「三日後です」
「これは?」
「そちらは明日までに」
「……明日?」
「はい」
家令が申し訳なさそうに深く頭を下げる。
ソフィアはもう一度、母の帳簿を開いた。
数字を追う。
難しくはなかった。
少なくとも、何が書いてあるのかは分かる。
「……私がやります」
「お嬢様が?」
家令が驚愕のあまり目を丸くした。
おそらく父を説得してほしいとか、その程度のことを期待してやってきたのだろう。
「このままにはしておけないでしょう」
「ですが、お嬢様はまだ学園もございますし……」
「もちろん、全部一人でやるとは言ってないわ。分からないことは教えて」
「しかし……」
「お母様がやっていたのでしょう?」
ソフィアは帳簿に残された文字を指でなぞった。
「だったら、私にもできるようになりたい」
義務感からというよりは、母ダフネが生前にしていたことを、ただなぞりたかっただけなのかもしれない。
家令はしばらくソフィアを見つめていたが、やがて静かに頭を下げた。
「かしこまりました」
最初に任されたのは、屋敷の日々の出納だった。
入ってくる金と、出ていく金。
使用人への給金。
食料や薪、油などの購入。
数字を扱うこと自体は、計算が得意なソフィアにとって難しくない。
けれど、帳簿に書かれている数字だけを見ていればいいわけではなかった。
「先月より、小麦が高いわね」
「今年は南部の収穫があまりよくなかったそうです」
「だったら、来月も上がる?」
「その可能性はございます」
ソフィアは少し考え、前年の帳簿を開いた。
そこにも几帳面な母の字があった。
――不作の年は冬に入る前に麦を多めに確保すること。
「……これ」
家令が覗き込む。
「ああ。昨年もダフネ様が」
「今年も同じようにした方がいい?」
「よろしいかと存じます」
「じゃあ、そうしましょう」
一つ分かると、次の分からないことが出てきた。
領地から届く複雑な報告書を読むようになった。
商人から届く分厚い請求書を確認するようになった。
倉庫にどれだけの備蓄があるのかも、いつの間にか頭に入っていた。
家令や使用人に尋ね、それでも分からなければ母が残した帳簿を開いた。
何年も前の帳簿にまで、母の文字は残っていた。
――この商人は支払いを急がせないこと。
――北の荘園は春先に道が悪くなる。荷は早めに動かす。
――今年は油の減りが早い。原因を確認すること。
文字を追っていると、まるで目の前で母に教えてもらっているような気がした。
返事のない問いかけを、ソフィアは何度も帳簿に向かって繰り返した。
気がつけば、ソフィアの机には学園の教本と並んで、何冊もの帳簿が積まれるようになっていた。
母がやっていたことのすべてを、すぐにできたわけではない。
それでも、一つ覚えるたびに分かっていった。
母がこの家で何をしていたのか。
どれだけ多くの人の暮らしを支えていたのか。
そして、その重さを父がほとんど理解していなかったことも。
忙しくなった。
学園から帰れば帳簿を開き、休日には家令と一緒に倉庫を見て回る。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
数字を追っている間だけは、母がいないことを考えずに済んだ。
帳簿の数字は、母のように何も言わずに消えたりはしない。
それは、当時のソフィアにとって、家に残された数少ない確かなものだった。
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