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アルカディア建国記 ー女提督は静かに切れる 婚約破棄から始まる独立戦記ー  作者: 尾道 汀
第2章 王都撤退への布石

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第34話 母の死

その日、ソフィアが学園から帰ると、屋敷の様子がいつもと違っていた。


日はすでに傾きかけていた。

開け放たれた玄関扉から差し込む夕暮れの光が、磨かれた床の上に長く伸びている。


いつもなら夕食の支度をする音が聞こえてくる時間だった。

厨房から食器の触れ合う音がして、廊下を行き交う使用人たちの声がする。

母が家にいれば、ときどきその中に明るい笑い声が混じることもあった。


けれど、空気そのものが、いつもと違う色をしているように感じられた。

玄関を入ったところで、何人もの使用人が慌ただしく行き交っている。

誰もソフィアを出迎わず、いつもなら聞こえてくるはずの母の声もなかった。


「……何かあったの?」


近くを通りかかった侍女に声を掛ける。

侍女はびくりと足を止め、ソフィアの顔を見た。

その表情が、明らかに曇った。


「お嬢様……」


それだけで、胸の奥がざわついた。


「お母様は?」


答えはなかった。


「お母様は?」


もう一度尋ねると、侍女はきつく唇を噛み、目を伏せた。


「奥様は……」


その先の言葉を聞く前に、ソフィアは弾かれたように走り出していた。


「お母様!」


手にしていた鞄が重い音を立てて床に落ちる。

それにも構わず階段を駆け上がり、母の部屋へ向かって廊下を走る。

窓から差し込む西日が、長い廊下を不気味なほど赤く染めていた。


母の部屋の扉が見えた。

その前には渋い顔をした医師がいた。

足元には見慣れない鞄が置かれ、その隣には父も立っている。


「お父様!」


フィリッポスがゆっくりと振り返った。その顔には何の表情も浮かんでいない。


「ソフィアか」


「お母様は?」


一瞬の沈黙があった。


「……亡くなった」


意味が分からなかった。


「え?」


「事故だ。助け出されたときにはひどい有様だったらしい。手は尽くしたのだが、間に合わなかった」


ソフィアは呆然と父の顔を見つめた。

何を言われたのか、頭が理解を拒んでいた。


亡くなった。

事故。

間に合わなかった。


どれも知っている言葉なのに、それが母のことを指しているとは思えなかった。

今朝も母は、いつものように「行ってらっしゃい」と言ってくれた。

だから、帰れば当然のようにそこにいるはずで、明日もいつもどおり、見送ってくれるに違いなかった。


「……会わせて」


「今はやめておきなさい」


「会わせて」


「ソフィア」


「お母様に会わせて!」


自分でも驚くほど大きな声が出た。

生まれて初めて父に向かって声を荒らげた。

フィリッポスがわずかに眉をひそめて、ソフィアを見下ろす。


「騒ぐな。医師の指示に従いなさい」


「会わせて!」


ソフィアは動かなかった。

何を言われても、ここを退くつもりはなかった。


やがて医師がフィリッポスへ近寄り、耳元で何かを囁いた。

父は小さく息を吐き、諦めたように扉へ目を向ける。


「……少しだけだぞ」


扉が開いた。

ソフィアは吸い込まれるように中へ入った。


部屋には強い薬草の匂いが満ちていた。

普段の母の部屋にはない、鼻につく匂いだった。

その中に、かすかに鉄のような匂いが混じっている。

何の匂いなのか、ソフィアにはすぐには分からなかった。


窓から差し込む夕暮れの光が、床を淡く照らしている。

窓辺には母の好きな花が飾られ、小さな机には読みかけの本が置かれていた。その隣には、作りかけのトンボ玉が残されている。

見慣れた母の部屋だった。


何もかもが変わっていないように見える。

その部屋の奥、いつもと同じ寝台に母は横たわっていた。


見慣れた横顔。

けれど、いつもきれいに整えられていた髪は乱れ、額には白い布が巻かれている。

布の端には乾きかけた血が赤黒く滲み、頬にも細い傷が走っていた。


ソフィアは足を止めた。

そこで初めて、部屋に漂っていた鉄のような匂いが何なのか分かった。


「お母様……?」


返事はない。

胸も動いていない。


ソフィアはしばらくその場に立ち尽くして、母を見つめていた。

それでも、まだ信じられなかった。


ゆっくりと寝台のそばまで歩き、そっと母の手に触れる。

石のように冷たかった。

思わず手を引きかけ、それでも離すことができず、今度は両手でその手を包み込んだ。


いつもトンボ玉を作っていた手だった。

細い棒を器用に操り、溶けたガラスをくるくると回していた指。

幼い頃から何度も、ソフィアの髪を優しく撫でてくれた手。

その手が、もう二度と動かない。


「……ただいま」


毎日のように言っていた言葉だった。

返事はなかった。


「お母様、ただいま」


いつもなら、

――お帰りなさい、ソフィア。

そう返してくれたはずだった。


「……帰ってきたよ」


それでも、やはり返事はなかった。

ソフィアは母の手を握ったまま俯いた。


どれくらいそうしていたのか分からない。

ただ、冷たかった母の手が、自分の手の温もりで少しずつ温かくなっていく。

それなのに、母は目を覚まさない。

そのことが、どうしようもなく悲しかった。

ソフィアは母の手を離せないまま、長い間その場を動かなかった。


◇


葬儀が終わったあと、屋敷は火が消えたように静かになった。

弔問に訪れていた大勢の人々も帰り、慌ただしく働いていた使用人たちも、いつもの仕事へと戻っていった。


母の部屋だけが、あの日のまま残されていた。

窓辺には母の好きだった花があり、小さな机には読みかけの本が置かれている。


けれど、そこに母はいない。

屋敷のどこにいても、母がいないという事実がソフィアの心を苛んだ。

いつの間にか、口数も少なくなっていた。


学園では以前と変わらず過ごそうとした。

朝になればいつもどおり制服に着替え、授業を受け、友人たちと昼食を取る。

誰かに話しかけられれば返事もした。

笑うところでは、周りに合わせて笑った。

少なくとも、自分ではそのつもりだった。


けれど、うまくいかなかった。

笑っているつもりなのに、頬がこわばってうまく動かない。

教師の話を聞いていたはずなのに、気がつけば視線は虚空を彷徨い、何も耳に入っていない。


ふとした拍子に、ついこの間までそこにいた母のことを思い出す。

そんな日は決まって、家に帰るのがどうしようもなく怖くなった。


授業が終わったあとも、ソフィアは教室に残っていた。

窓から差し込む午後の日差しが、誰もいなくなった机の上に細長い影を落としている。


帰らなければならない。

分かっているのに、席を立つ気になれなかった。

家に帰って玄関を開けても、もう母はいない。出迎えてはくれない。

その現実を思い浮かべるだけで、足が重くなる。


いつの間にか、隣の席にイレーネが座っていた。

いつ来たのか、ソフィアは気づかなかった。


イレーネは何も言わない。

本を読むでもなく、話しかけるでもなく、ただ窓の外を眺めながら座っている。

普段のあの騒がしさが嘘のように、静かにそこにいるだけだった。


「……イレーネ」


「なに?」


「今日は、どこにも行かないの?」


「行かない」


「どうして?」


イレーネは少しだけソフィアの方を向いた。


「今日はここにいる」


それだけだった。

励まそうともしなかった。

無理に元気を出せとも、いつか悲しくなくなるとも言わなかった。

ただ、当たり前のように隣にいた。


窓の外から、遠くで女生徒たちの楽しそうな話し声が聞こえてくる。

しばらくして、ソフィアがぽつりと言った。


「お母様ね」


「うん」


「私が学園から帰ると、いつもお帰りなさいって言ってくれたの」


「うん」


「どんなに遅くなっても、ちゃんと玄関まで来てくれて」


イレーネは黙って聞いていた。


「昨日、家に帰ったら……誰も言ってくれなかった」


「うん」


「分かってたのに」


声が少し震えた。


「もう、お母様はいないって分かってたのに……」


それ以上、言葉が続かなかった。


イレーネも何も言わない。

ただ、机の上に置かれていたソフィアの手に、自分の手を重ねた。

温かかった。

あの日、どれだけ握っていても、自分の温もりが移るだけだった母の手とは違う。

イレーネの手から、確かに伝わってくる温かさだった。


その瞬間、ソフィアの目から涙がこぼれた。

一粒だけ、机の上に落ちた。


それを見た途端、もう止められなかった。

次から次へと涙が溢れ、視界が滲んでいく。

声を上げまいとして必死に唇を噛んでも、肩が大きく震えた。


イレーネは何も言わなかった。

ただ少しだけ椅子を寄せ、ソフィアの手をいつまでも優しく握り続けていた。

お読みいただきありがとうございます。

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