第33話 ソフィアが笑っていた頃
ソフィアは一人、薄暗い廊下を歩いていた。
足音は自分にしか聞こえないほど小さく、それはここ3年ほどで身についた癖だった。
先ほどの父の言葉が、頭から離れなかった。
――返せばいい。それで終わりだ。
お父様は、タラシア家を誤解している。
あの一族は、王家に従順だから長年仕えてきたのではない。
タラシア家は、いうなれば冒険者の一族だ。
未知の海があれば船を出す。
誰も知らない土地があると聞けば、自ら確かめに行く。
その先に何が待っているのか分からなくても、未知への憧れだけで己の命まで賭けてしまう。
勇敢などという言葉では足りない。
あの一族には、どこか苛烈なところがある。
歴史をひもとけば、それは嫌というほど分かる。
帳簿の数字の裏にある無数の航海記録や損失報告を読み解いてきたソフィアだからこそ、その苛烈さをただの伝聞ではなく、確かな重みを持って理解していた。
そして――
イレーネもまた、間違いなくタラシアの人間だった。
王都で得た地位も権益も返せとアレクシオスに言われたのなら、彼女は返すだろう。
一つ残らず。
ソフィアには、その確信があった。
あの子は昔から、そういう人だった。
考えているうちに、自分の部屋の前まで来ていた。
扉を開け、中へ入る。
久しぶりに戻った自室は、ひどく殺風景になっていた。
家具は昔のまま残っている。
机も、本棚も、窓辺に置かれた椅子も。
けれど、かつて部屋を飾っていた小物や装飾品の類いは、ほとんど残っていなかった。
アンナが欲しがるたびに、一つ、また一つと譲ってきたからだ。
別に、惜しいとは思わなかった。
少なくとも、そのたびにソフィアはそう自分に言い聞かせてきた。
物が減っていくたび、部屋は少しずつ広くなり、そのぶん静かになっていった。
今ではもう、誰の目にも留まらない空白のような場所だった。
ソフィアは窓辺へ歩み寄る。
窓の向こうには、夜の王都が広がり、家々の灯りが、暗闇の中に点々と浮かんでいた。
何を考えるでもなく、ただそれを眺める。
どれほどそうしていたのか、自分でも分からない。
やがて――。
窓ガラスに、小さな水滴がひとつ落ちた。
もうひとつ。
さらに、ひとつ。
「……雨」
雨をこうして眺めるのも、久しぶりな気がした。
細かな雨粒が、王都の灯りを少しずつ滲ませていく。
その光景を見ているうちに、ふと、遠い日の記憶が蘇った。
まだ母がいた頃。
まだこの部屋に、たくさんの物があった頃。
そして、自分が、まだ笑っていた頃――。
◇
――十二歳になった秋。
王立学園へ入学したばかりのソフィアは、今よりもずっとよく笑う少女だった。
もともと物静かな性格ではあった。
大勢の中で目立つことを好まず、自分から誰かに話しかけることも少ない。
それでも、声を掛けられれば柔らかく微笑み、楽しいことがあれば笑った。
教室の隅の席を好み、休み時間はたいてい本を開いていたが、それは、彼女にとって一番落ち着ける場所だったからだ。
入学して間もなく、新入生を対象に簡単な学力試験が行われた。
試験といっても、順位を競うためのものではない。
入学までに、それぞれの家庭でどの程度の教育を受けてきたのか。それを教師たちが確認するためのものだった。
数日後、返された答案を見て、ソフィアは少しだけ安堵した。
すべて満点だった。
間違いがなかった。
それだけを確認すると、答案を揃えて机の中へしまおうとする。
誰かに見せるためのものでも、誇るためのものでもない。
ただ、努力して学んだ結果が出た。
その事実だけで、彼女には十分だった。
「ねえ!」
突然、すぐ後ろから声を掛けられた。
ソフィアは驚いて振り返る。
燃えるような赤い髪の少女が、肩越しに答案を覗き込んでいた。
「今の、全部満点だったよね?」
「……え?」
少女はソフィアの返事を待たず、手にしている答案へ目を落とした。
「やっぱり!」
少女の顔が、ぱっと明るくなる。
「満点なんてすごいわ! どうしたらそんなにできるの?」
あまりにも屈託なく褒められて、ソフィアはどう答えていいのか分からなかった。
褒められること自体に慣れていなかった、というのもある。
だが何より、この少女の言葉には裏がまるで感じられなかった。
少女は嬉しそうに笑いながら、遠慮なくさらに顔を近づけてきた。
ソフィアは気圧されるように、ほんの少しだけ身を引く。
「あなた、ソフィアよね? デルフィ家の」
ソフィアは戸惑いながら頷いた。
イレーネ・タラシア。
まだまともに話したことはなかったが、もちろん名前は知っている。
鮮やかな赤い髪に、琥珀色の瞳。
よく笑い、よく喋り、どこにいても人の輪の中心にいる。
教室の反対側にいても、その明るくよく通る声だけでどこにいるか分かるような少女だった。
ソフィアにとっては、自分とは正反対の人間だという印象しかなかった。
「うん……でも……そんなにすごいことでもないよ」
「そんなことないわ。だって、たくさん勉強しないと満点なんて取れないでしょ? 努力家ね」
当然のように言って、イレーネは笑った。
屈託のない、太陽のような笑顔だった。
そこには家格も、デルフィ家の娘だからという遠慮もない。
ただ、すごいと思ったから褒めている。
ソフィアには、それが少しくすぐったかった。
「……ありがと」
思わず、はにかむような笑みがこぼれた。
「ねえ、それで――」
イレーネは待ってましたとばかりに、一枚の答案を取り出した。
「これ、教えてくれない?」
「これ?」
受け取って目を落とす。
計算問題だった。
途中までは合っているが、その先で数字が盛大におかしくなっている。
「どこで間違えたのか、全然分からないの」
「……ここ」
ソフィアが指を置いた。
「最初から?」
「ううん。ここまでは合ってる。でも、この数字を移すところで符号が逆になってるから」
「符号?」
「ほら、ここ」
二人で答案を覗き込む。
「あっ」
イレーネが声を上げた。
「だから最後がこんな数字になるのね!」
「そう」
「分かった!」
顔を上げたイレーネが嬉しそうに笑う。
つられて、ソフィアも笑顔を見せた。
「ソフィア、教えるの上手ね」
「そう?」
「うん。先生より分かりやすい」
「それは言いすぎよ」
今度は声を立てて笑った。
普段はほとんど出さない、無防備な笑い声だった。
「じゃあ、こっちも教えて」
「まだあるの?」
「いっぱいある」
イレーネが差し出した答案を見て、ソフィアは今度こそ、声を立てて笑った。
それが、二人の始まりだった。
あの日の教室の光景は、今も色褪せることなくソフィアの中に残っている。
◇
それからの二年間、二人はよく一緒にいた。
お互いの性格はまるで違った。
物静かなソフィアに対して、イレーネはいつも動き回っていた。
「ソフィア、行くわよ」
「どこへ?」
「まだ決めてない」
「決めてから誘ってよ」
そんなことを言いながらも、結局ソフィアはついていく。
口では渋ってみても、断るという選択肢は最初からなかった。
昼休みには中庭へ連れ出され、休日になれば王都の店を見て回り、ときにはイレーネの思いつきに振り回された。
なかでも多かったのが、船だった。
王都の港に珍しい船が入ったと聞けば、授業が終わるなりソフィアの手を引いて見に行った。
「見て、ソフィア! あの船、帆の張り方が違うわ!」
「……私には同じに見えるけど」
「全然違うわよ!」
何がどう違うのか、イレーネは目を輝かせながら延々と説明する。
ソフィアには半分も分からなかった。
ヤードだのシュラウドだの、クローズホールドだのという専門的な単語が右から左へ流れていったが、それを聞き返す気にはならなかった。
それでも、楽しそうに話すイレーネを見ているのは嫌いではなかった。
むしろ、話の中身よりも、目を輝かせる友人の横顔を間近で眺めている時間の方が、ソフィアにとっては何よりも好きだったのかもしれない。
家に帰れば、母がいた。
「お帰りなさい、ソフィア」
「ただいま、お母様」
ダフネはいつも穏やかに娘を迎えてくれた。
手先が器用な人だった。
とりわけ指先を自在に操るギフトを持ち、暇を見つけては色ガラスを溶かし、小さなトンボ玉を作っていた。
細い棒の先で溶けたガラスを器用に転がし、いくつもの色を重ねていく。
炎の熱に炙られた硝子が、魔法の指先の動きひとつで少しずつ形を変えていく様子を、ソフィアは飽きることなく眺めていた。
出来上がったものはソフィアにくれることもあれば、親しい友人に贈ることもあった。
父はただのガラス玉だと言って見向きもしなかったが、ソフィアは母の指先から生まれる色とりどりの玉が大好きだった。
今ではほとんど自室のようなものになっている城の仮眠室には、そうして作られた色とりどりのトンボ玉が、小さな箱に大切にしまわれている。
幸い、アンナはただのガラス玉だと思ったのか、興味を示さなかった。
とはいえ、万が一にも壊されるのは嫌だったため、箱ごと城に置いてある。
学園での出来事を話せば、ダフネはトンボ玉を作りながら楽しそうに聞いてくれた。
なかでも、イレーネの話をすることは多かった。
今日は突然、中庭へ連れていかれた。
王都の店で見つけた菓子がおいしかった。
授業でこんな恥ずかしい失敗をした。
そして、港に珍しい船が入ったからと連れていかれ、帆の張り方がどう違うのか延々と説明された。
「イレーネ様って、本当に船が好きなのね」
色ガラスを細い棒の先で転がしながら、ダフネが楽しそうに笑う。
「好きなんてもんじゃないわ。あれはもう病気よ」
「まあ」
母が声を立てて笑う。
ソフィアもつられて笑った。
他愛のないやり取りの一つひとつが、当時のソフィアにとっては当たり前の、しかしかけがえのない時間だった。
いつしかダフネも、娘の親友である赤い髪の少女のことをすっかり覚えていた。
「今度、イレーネ様にも一つ作ってあげましょうか」
「トンボ玉を?」
「ええ。あなたの大切なお友達でしょう?」
ソフィアは少し考えた。
「……船の模様なら、きっと飛び上がって喜ぶかも」
「それは難しそうね」
二人で顔を見合わせて、また笑った。
一方、父との会話はほとんどなかった。
母とはうまくいっていないようだったが、それを寂しいと思うこともあまりなかった。
父が自分にも興味がないことには、幼いなりに気づいていた。
だが、それを埋めて余りあるほど、いつも母がそばにいてくれた。
母がいて。
学園へ行けば、友人たちがいて。
その中には、いつも太陽のように笑う赤い髪の少女がいた。
ソフィアにとって、それで十分だった。
多くを望まない性分だったこともあるが、何より、それ以上を望む必要など感じないほど、満ち足りた日々だった。
十四歳になる少し前までは。
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