第32話 デルフィ家の祝宴
陸海両大臣が執務室を後にしてから、しばらく経った頃だった。
先ほどまで響いていた笑い声も消え、部屋には静けさが戻っている。
窓の外はすでに藍色に沈み、机の上の魔晶灯の光だけが小さく部屋を照らしていた。
フィリッポスも机の上に残っていた書類を無造作に束ね、片付け始めていた。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのはソフィアだった。
ブルネットの髪を飾り気なく後ろでまとめ、白いブラウスに灰色のスカートという簡素な装いをしている。
華やかな社交界の令嬢たちとは対極にある、地味な事務員のような姿だ。
茶色い瞳をした整った顔に黒縁のメガネをかけ、いつものようにほとんど表情がなかった。
何冊かの年季の入った帳簿と分厚い書類を抱え、うつむき加減に父の机まで歩み寄る。
「お父様。昼前にご指示いただいた資料がまとまりました」
「やっとできたか。そこへ置いておけ」
ソフィアは机の空いた場所へ書類を揃えて置く。
フィリッポスはソフィアには目もくれず、身支度をしていた。
やがて、書類を手に取り、ざっと目を通していく。
「相変わらず、計算だけは正確のようだな。これなら明日の会議に間に合う」
フィリッポスは何枚か書類をめくり、ふと、あるページで手を止めた。
「ふむ、『第二練習艦隊解隊に伴う、本年度余剰予算の再配分について』、か。急造にしては悪くない。陸海両軍の利害を調整しながら、これだけの予算を短時間で組み直したか。文官どももなかなかやりおる」
感心したように頷いたフィリッポスが、そこで初めて影のように佇むソフィアへ冷ややかな目を向けた。
「余計な手出しはしておるまいな」
「……はい」
「ならいい。お前は言われた通り計算だけしておればよい。未熟者が手を出して現場が混乱しても困るからな」
ソフィアは能面のような表情のまま、小さく頭を下げた。
「ほかに何かございますか」
「いや、今日はもういい」
「分かりました。では、仕事が残っておりますので、続きを――」
一礼して、ソフィアは扉へ向かおうとした。
「待ちなさい」
低く鋭い声に、足を止め、振り返る。
「はい?」
「今日はお前も帰るぞ」
ソフィアが、わずかに目を見開いた。
「ですが、まだ処理すべき仕事が残っています」
「相変わらず愚図だな。まあよい、それは明日でいい」
フィリッポスは苛立たしげに机の上の書類をまとめた。
「普段ならいくら残業しようが構わんが、今日くらいは家に帰れ。アンナの祝いだぞ」
「……ですが」
「お前が一晩ここに残ったところで、財務局の仕事がはかどるわけでもあるまい」
冷たく言い放つと、フィリッポスは出口に向かって歩み出した。
「それとも何だ。今日もあの狭い仮眠室で寝るつもりだったのか?」
ソフィアは組んだ手を、さらに握りしめる。
「そのつもりでした」
「まったく……」
フィリッポスは呆れたように首を振った。
「できない分、人より多く仕事をする努力は認めてやるが、残りは明日にしなさい」
有無を言わせぬ父の言葉に、ソフィアは静かに頭を下げた。
「……分かりました」
ソフィアは、深く頭を下げた後、父の後に続いて部屋を出ていった。
灯りを落とした執務室の扉が閉まる音だけが、静かな廊下に短く響いた。
◇
デルフィ邸に着いた頃には、すっかり日も暮れていた。
いつもは静かな邸宅の窓からは溢れんばかりの光が漏れ、庭の隅々まで明るく照らしていた。
食堂には普段より多くの贅を尽くした料理が並び、卓上の魔晶灯にもすべて灯りが灯されている。
揺れる光が部屋全体を黄金色に染め上げていた。
アンナの婚約を祝うために用意された、これ以上なく華やかな晩餐だった。
「あなた、お帰りなさい」
ベレニケが豪奢なドレスの裾を軽やかに揺らしながら、フィリッポスを笑顔で迎える。
「今日は本当に素晴らしい日になりましたわね」
「ああ。私にとっても、忘れられない一日になったよ」
フィリッポスも上機嫌に答えた。
その後ろから影のようにひっそりと入ってきたソフィアに気づき、ベレニケが少し目を見開く。
「あら。ソフィアも帰ってきたの」
「はい、お義母様」
「珍しいこともあるものね」
「私が連れて帰ったのだ。放っておけば、今日も王城に残るつもりだったらしい」
フィリッポスが笑いながら言う。
ベレニケは呆れたように娘を見た。
「またなの? あなたもいい年頃なのですから、仕事ばかりしていないで、もう少しアンナを見習って、自分のことにも気を配りなさい」
「はい」
「相変わらず愛想もないし。せっかくアンナのお祝いなのよ。少しくらい嬉しそうな顔をしたらどうなの?」
「申し訳ありません」
ソフィアはただ静かに頭を下げた。
言い返す言葉はいくつも喉元まで出かかっていたが、それを口にしたところで何も変わらないことを、彼女はもう十分すぎるほど知っていた。
それを見たベレニケが小さくため息をつく。
「全く、この子は。まあ、いいでしょう。今日はお祝いですもの。このくらいにしておきましょう」
ベレニケはドレスを翻し、甘ったるい香水の香りとともに、夫をいざなって食堂へと向かう。
ソフィアは黙って、その後に続いた。
先を行くデルフィ夫妻の軽快な足音と、その後に続くソフィアの重く静かな足音。
その隔たりが、奇妙な不協和音となって響いていた。
「お父様!」
食堂に入るフィリッポスの姿を見るなり、アンナは弾むように近づき、満面の笑みを浮かべる。
淡い水色のドレスに身を包んだアンナは、魔晶灯の光を受けて、まるで舞台の主役のように輝いて見えた。
「お帰りなさいませ」
「ああ。ただいま」
「今日は本当にありがとうございました」
「私に礼を言ってどうする。殿下がお決めになったことだ」
言いながらも、フィリッポスの頬はこれ以上ないほど緩んでいる。
「それでもです。お父様がずっと殿下をお支えしてきたからこそですもの」
「そうか、そうか」
満更でもなさそうに頷いていたフィリッポスだったが、アンナがその後ろへ視線を向けた。
「あら、お義姉様も帰ってきたのですね」
「ええ」
「珍しい」
母とまったく同じ言葉に、ソフィアは何も答えなかった。
同じ言葉が二度繰り返されたことに、皮肉めいた可笑しさすら覚えた。
やがて四人が席につき、晩餐が始まった。
ソフィアの席は、いつも通り中央の賑わいから遠く離れた末席に近い場所だった。
銀の食器が皿に触れる小さな音に混じって、ときおり夫妻とアンナの笑い声が響く。
話題の中心は、もちろんアンナだ。
「ありがとう、お姉様」
ソフィアが静かに祝うと、アンナは嬉しそうに微笑んだ。
「まだ何だか夢のようなの。まさか殿下が、あのような場で皆様に発表なさるなんて」
「殿下も、それだけお前のことを大切に思っておられるということだろう」
フィリッポスが満足げに答える。
「それに、これでようやく殿下も身軽になられた」
「身軽に?」
「タラシア家だよ」
フィリッポスは吐き捨てるように言った。
「あの家は、これまで王家に対してあまりにも大きな顔をしすぎた。海運を握り、港を押さえ、海軍にまで強い影響力を持っている。それを自分たちの力だと勘違いしている」
ソフィアは黙ったまま、父の話を聞いていた。
フォークを持つ指先に、わずかに力がこもるが、表情には出さない。
「イレーネ嬢も同じだ。陛下に目をかけられていたからといって、少々思い上がっていたのではないか。王太子の婚約者でありながら、海だ、船だ、外洋だと好き勝手に動き回る。殿下を立てようという気持ちがまるでない。女のくせに出しゃばりすぎだ」
「まあ、あなた」
ベレニケが楽しそうに笑う。
「随分とはっきり仰るのね」
「事実だろう」
フィリッポスは杯を傾けた。
「そもそも、あの外洋政策とやらも、どれだけ国費を使ったと思っている。いつまでも海の向こうに夢を見ている場合ではない。殿下が打ち切られたのは当然だ」
「では、タラシア家が王都からいなくなっても、問題ありませんの?」
アンナが退屈な世間話でもするように無邪気に尋ねた。
「何の問題がある」
フィリッポスは鼻で笑った。
「商人なら代わりはいくらでもいる。船乗りも同じだ。タラシア家がいなければ王国が回らないとでも思っているのなら、それこそあの家の思い上がりというものだ。王家から与えられた利権に胡坐をかいていたに過ぎん」
「では、殿下のおっしゃったことは正しかったのですね」
「もちろんだ」
フィリッポスは迷いなく頷いた。
「王家から与えられた地位も権益も返せと言われたのだ。返せばいい。それで終わりだ」
ソフィアの手が、わずかに止まった。
帳簿の数字なら誰よりも早く読み解ける彼女には、タラシア家が担ってきたものの大きさが、父よりもずっと正確にわかっていた。
だが、それを口にしたところで、この食卓では意味を持たないことも、同じくらいよくわかっていた。
「あの娘も、これで少しは自分の立場というものを理解するだろう。惨めにアルカディアへ帰って頭を冷やせばいい」
「まあ、もうよろしいではありませんか」
ベレニケが笑いながら話を切った。
敗者の噂など、この華やかな夜には不釣り合いだと言わんばかりだった。
「今日はアンナのお祝いなのですから」
「それもそうだな」
フィリッポスの表情がすぐに緩んだ。
「王太子妃ともなれば、今まで以上に学ばなければならないことも増えるだろう」
「はい、お父様。私、頑張ります」
「いずれは王妃となられる身ですもの。今まで以上に立ち居振る舞いにも気をつけなくてはね」
「気が早いぞ」
フィリッポスが豪快に笑う。
「あなたこそ、先ほどからずっと嬉しそうではありませんか」
「もちろん、父親だからな。かわいい娘の婚姻が決まってうれしいに決まっておる」
三人の温かな笑い声が食堂に広がった。
ソフィアはただ一人、会話の輪に加わらず、静かに食事を続けていた。
「それにしても――」
アンナが憐れむように義姉を見る。
「お義姉様は、本当に変わりませんね」
ソフィアは手を止め、茶色い瞳を静かにアンナへ向けた。
「今日くらい、もっと楽しそうになさればいいのに」
「楽しんでいるわ」
アンナは大げさに眉を下げ、困ったように笑った。
その態度には、愚かな姉を優しく諭すかのような、憐憫の色が滲んでいた。
「そうは見えませんわ。私、いつも申し上げているでしょう? 淑女なら、もう少し愛想よくなさった方がいいって」
「ああ、そういえばお前、最近よく王城へ行っていたな」
フィリッポスが思い出したように言う。
「はい。毎日のように、お義姉様のところへ」
アンナは少し得意げに薄い胸を張った。
「少しでもお義姉様のお役に立てればと思って、いろいろ教えて差し上げているんです。でも、お姉様ったら何度言っても聞いてくださらなくて」
「まあ」
ベレニケもまた、呆れたようにソフィアを見る。
「義妹にそこまで気を遣わせているの? 自分の無愛想さを、妹の優しさに甘えて補おうとするなんて、姉としての自覚が足りなくてよ」
「……申し訳ありません」
「アンナは昔から人付き合いが上手だったからな」
フィリッポスも頷いた。
「お前も数字や帳簿ばかり見ていないで、少しはアンナを見習った方がいい」
「はい」
「計算ばかりできても仕方あるまい。少しは人との付き合い方を覚えなさい」
ソフィアは何も言わず、小さく頷いた。
「それに、その顔」
ベレニケが嫌悪感を隠そうともせず眉を寄せる。
「昔から何を考えているのか分からないのよ。どうしてあなたは、そんなに陰気なのかしら。実の母親に似たのかしらね」
ソフィアの肩が少しだけ跳ね上がり、食器を持つ手に力が入る。
亡き母への侮辱だけは、どれだけ心を凍らせても慣れることがなかった。
「……申し訳ありません」
「まあ、昔からですものね。お姉様、怒っているわけではないのよね?」
アンナが困ったように笑った。
「そんなわけないでしょ」
ベレニケも軽くあしらって、それ以上は何も言わなかった。
「それよりアンナ。明日からは忙しくなりますよ」
「はい、お母様」
話題はあっさりとアンナへ戻った。
「王太子妃となれば、これまでと同じというわけにはいかないからな」
フィリッポスもすぐに話へ加わる。
「今まで以上に多くの者がお前を見ることになる。しっかり励みなさい」
「もちろんです」
アンナは晴れやかな笑顔で頷いた。
「まずは衣装も見直さなくてはね。殿下のお隣に立つ以上、今まで以上に気を配らなくては」
「まあ、お母様。まだ婚約したばかりですわ」
「だからこそ、今から準備するのです。デルフィ家の名誉に関わるのですよ」
「ははは。ベレニケは気が早いな」
三人の楽しげな声が重なる。
ソフィアなど最初からそこにいないかのように、話題はアンナのこれからへと移っていった。
ソフィアは何も言わず、味のほとんど感じられない料理を淡々と口に運び続けていた。
やがて晩餐が終わりを告げると、ソフィアが椅子を引く音すら立てず、気配を殺すように席を立った。
「では、お先に失礼いたします」
「ああ」
フィリッポスはアンナとの話を続けたまま、視線すら向けず軽く手だけを上げる。
「おやすみなさい、お義姉様」
「ええ。おやすみ、アンナ」
ソフィアは静かに一礼し、食堂を後にした。
扉が閉じても、家族の楽しげな声はしばらく廊下まで聞こえていた。
お読みいただきありがとうございます。
気に入っていただけましたら、ブックマーク・評価いただけると嬉しいです。




