第30話 心配する者たち
時は少し遡って、修了式当日の夕方。
王城の一角にある外務大臣執務室には、三人の男が集まっていた。
外務大臣ダミアン・カリストと、その息子で新進気鋭の外交官でもあるレオン。
そして商工大臣レアンドロ・ペトラ。
王国でも有数の商家、ペトラ家の当主でもある。
商人として各地に独自のつながりを持ち、南のセルカーン帝国から西方小国家群まで、広く交易に関わっている。
大臣の中では若手ではあるが、その手腕は侮れない。
狐を思わせる細い目には、いつも本心の読めない薄い笑みが浮かんでいる。
今も深くソファに腰掛け、沈みゆく夕日をめがねに反射させていた。
話題は、当然ながら今日の修了式で起きたことだった。
「外洋政策を縮小すること自体は、殿下のお考えだ。それを今後の国の方針として真っ向から否定するつもりはない」
ダミアンは前置きしてから、手元の書類から顔を上げ、眉間に深い皺を刻んだ。
窓から差し込む斜陽が、彼の険しい輪郭を赤く染めている。
「だが、我々が海へ出る意思を失ったとセルカーンに受け取られるのは、外交上よろしくない」
「帝国がどう出るか、その動向を懸念されているのですか」
レオンの真剣な問いに、ダミアンは重々しく頷いた。
「こちらが海へ出なければ、向こうも何もしない、とは限らん。むしろ逆だ。サフィル沖の戦い以降、陛下は多大な国費を投じて海軍を整え、航路の安全を守ってこられた。王国が海に目を向け続けてきたからこそ、セルカーンもこちらを無視できなかったのだ」
「私も、そこは全く同意見であり、大いに気になっております」
レアンドロが静かに口を開いた。それまでソファの背にもたれていた上体をゆっくりと起こし、ダミアンへと向き直る。
「帝国の内情が、あまりよろしくないという話は私のところにも入っております。そんな時に、外洋政策を止め、セルカーン帝国との近海貿易だけに頼る必要はないでしょう」
「セルカーンとの交易が途絶えると?」
ダミアンが、鋭い視線をレアンドロへ向けた。
「そこまでのことが起きるかは分かりません。ですが――」
レアンドロは膝の上で指を組んだ。
「――商売というものは、一つの相手に頼り切る方が怖い。これまで外洋航路には、国庫からも相応の金を投じてきました。ようやくサルヴァーノ地方との交易も増え始めたところです。それを今になって、すべてやめてしまうというのは……商工を預かる身としては、いささか納得しかねますな」
「まだ、それほど大きな利益にはなっていないのでしょう?」
壁にもたれ掛けていたレオンがレアンドロの方を見て尋ねる。
「ええ。ですが、今すぐ大きな利益になるかどうかだけが問題ではありません」
レアンドロはめがねをずらし、眉間をもむ。
「セルカーンの情勢が今後安定しつづけるとは言い難い。ならば、いざという時に使える別の市場と航路を、今のうちから育てておくべきでしょう。たとえ今すぐ大きな利益にならずともです。殿下にも何度も説明したはずなのですが」
ダミアンも同意するように頷いた。
「私も同意見だ。西へ力を入れることと、外洋航路を捨てることは同じではない」
「その通りです。西へ力を入れるなら入れればよい。だからといって、育ち始めた商いまで捨てる理由にはなりません」
レアンドロはそこで一度言葉を切った。
部屋の隅に落ちる影が、じわりと伸びていく。
「もっとも、私が一番懸念しているのは、ほかにありますが」
「タラシア家か」
「ええ。かの家がこれまで王国に尽くしてきたことを考えれば、あのような形でないがしろにされて、黙っているとは思えません」
ダミアンの表情がさらに険しくなる。
「私もそこが気になっている」
その名が出た途端、レオンの表情が目に見えて険しくなった。
組んだ腕に、指が白くなるほど食い込む。
ダミアンは息子のいらだちに気づいたが、あえて何も言わなかった。
「婚約をどうするかは王家の問題だ。だが、第二練習艦隊の解隊に加え、王都と海軍におけるタラシア家の権益まで剥奪するとなれば、話は違ってくる」
「そう、そこが一番の問題なんですが……」
レアンドロが腕を組み、陰り始めた天井の梁を見上げる。
「権益という言葉です」
「どういうことですか?」
レオンが顔を上げ尋ねる。
虚空を見つめたまま、レアンドロが応えた。
「殿下は、何をもってタラシア家の権益とお考えなのか。それが分かりません」
ダミアンも黙って続きを促す。
「海軍海運局で持つ地位なのか。工廠への関与なのか。王都で持つ商圏なのか。それとも海運事業そのものなのか」
レアンドロは一つずつ指を折っていった。
「タラシア家は長年、王都で様々な仕事に関わってきました。根は我々が思うよりも深く、複雑に絡み合っています。それをどこまで返せと言っているのか。それをすべて引き抜くとすれば、どこまで影響が広がるのか……」
「世間知らずな殿下のことだ、タラシア家だけを引き抜いて捨ててしまい、あとは王国で引き継ぐだけでいいとでも思っているのでしょう」
辛辣な言葉でレオンが冷ややかに指摘する。
「もちろん、その可能性はありますが、何度も言うように、ことはそう単純なものではないでしょう」
レオンのほうを振り向き、苦笑交じりにレアンドロが答える。
肩をすくめるレオン。
「ま、無理でしょうね」
レアンドロは無言でうなずいた。
「ただ、タラシア家に権益を返せと言っておきながら、仕事だけは今までどおり続けてくれ、というわけにもいくまい」
ダミアンが重々しく告げる。
「あり得るかは分からぬ。だが、こちらの都合のよい形で残ってくれるとは限らん。もしタラシア家が何もかも手を引いてしまったなら、その影響がどこまで広がるか分からん。我々としては、最悪のケースも考えておくべきだろうな」
「タラシア家がどうするかは分かりませんが、私ならするでしょうね。殿下にも相応の対価を払わせないと。ま、もしも、の話ですが」
眼鏡の奥で、レアンドロの細い目が意味ありげに光る。いかにも商人らしい答えだった。
ダミアンの深く息を吐く音が、静かな部屋に妙に大きく響いた。
「それ以前に、だ」
二人の視線が向く。
「なぜ、事前に話し合わなかったのかが分からぬ」
レオンが顔を上げた。
「父上も、そう思われますか」
「私もその場にいたわけではないが、伝え聞いた限りでは、あのような場で初めて伝える必要はなかったはずだ。あれでは、見せしめのようになってしまっておる」
「そうですよ!」
レオンは壁から離れ、前に踏み出す。その語気が少し荒くなる。
「婚約のことだけではありません。第二練習艦隊も含めて、イレーネは今日まで何も知らされてなかったんです。代々タラシア家に認められてきた提督位まで剥奪して、あれでは懲罰を与えたようなものです。殿下は王ですらないのに――」
「口を慎め、レオン」
父に名を呼ばれ、レオンはハッと息を呑んで口を閉じる。
しかしその目には、割り切れぬいら立ちが潜んでいた。
「今は殿下のやり方を非難するために集まっているのではない」
「……申し訳ありません」
レオンは拳を握りしめたまま、くやしげに視線を落とした。
「聞かなかったことにしておきますね」
レアンドロは飄々と言って、レオンに片目をつぶってみせた。
もっとも、目が細いのでレオンにはよく分からなかったが……。
ダミアンは呆れたように息を吐き、疲れたように両手で目の上をさすった。
顔をあげ、改めてレオンに向き合う。
「お前の言いたいことが分からんわけではない。私とて、今日のやり方が最善だったとは思っておらん。むしろ悪手といっていい」
レオンが驚いたように父を見る。
「だが、お前は外交官だ。口にしてよいことと悪いことくらいはわきまえろ。感情に任せた発言は、身を滅ぼしかねん」
「……はい」
それ以上、ダミアンは何も言わなかった。
いつの間にか、部屋はすっかり薄暗くなっていた。
やがて扉が静かに叩かれ、メイドが入ってくる。張り詰めた空気に何かを感じたのか、三人の顔をちらりと見たあと、黙って部屋の魔晶灯を点けていった。
誰も口を開かないまま、最後の魔晶灯に明かりがともる。
メイドが一礼して立ち去ると、柔らかな琥珀色の光に照らされた室内に三人だけが残った。
わずかに揺らめく魔晶灯の光に合わせるように、三人の影も床の上でゆらゆらと形を変えていた。
ダミアンはしばらく閉じた扉を見つめていたが、やがて口を再び開いた。
「ともかく、今は陛下がイレーネ殿とお会いになっている。我々がここであれこれ考えたところで、まずはその結果を待つしかあるまい」
レオンは急き立てられるように、ちらりと扉の方へ目を向けた。
その足先が、知らず知らずのうちに小さく床を叩いている。
この王城のどこかで、イレーネが今まさに陛下と向き合っていることは、三人とも知っていた。
「陛下ならば、何らかの落としどころをお考えでしょう」
レアンドロが懐から取り出した布でめがねを拭き、掛け直した。
「殿下の決定をすべて覆すことはないにしても、このままタラシア家との関係まで悪化させることは望まれないでしょうからな」
「そうだな」
ダミアンも同意した。
四十年近く王国を治めてきた王だ。
何もせず、このまま事態を放置するとは思えなかった。
そのとき、再び扉を叩く音が部屋に響いた。
「入れ」
ダミアンの短い許可に応じて、外務省の官吏が入ってくる。
「失礼いたします。陛下とイレーネ様のご面会が終わったようです」
その言葉を聞くなり、レオンが弾かれたように身をひるがえした。
「レオン?」
「少し失礼します」
「おい、待て」
だが、レオンはもう扉へ向かっている。
「申し訳ありません。すぐ戻ります」
背後からかかる父の静止も待たず、そのまま執務室を飛び出していった。
◇
レオンは王城の廊下を急いだ。
窓の外にはすでに夕闇が迫り、廊下に並ぶ魔晶灯が淡い光を落としている。
まだ間に合うはずだ。
胸の内で何度も繰り返しながら、もどかしさに突き動かされるように階段を駆け下り、玄関へ続く長い廊下へと滑り込む。
行き交う侍従や官吏たちの間を縫うようにして進んだ、その先。
見慣れた鮮やかな赤い髪が見えた。
「イレーネ!」
静寂を破るように声を掛ける。
赤い髪が揺れた。
イレーネが足を止め、ゆっくりと振り返る。
「レオン」
間に合った。
レオンは歩み寄りながら、わずかに乱れた息を整えた。
聞きたいことはいくらでもあった。
昨日まで何も知らなかったはずなのに、どうしてあの場で何も言い返さなかったのか。
一方的な婚約破棄のことをどう思っているのか。
苦労して育ててきた第二練習艦隊はどうするつもりなのか。
今、陛下と何を話してきたのか。
何より、理不尽に傷つけられたであろう彼女に言葉を掛けてあげたかった。
どんな形であれ、彼女を支えたかった。
だが、いざ口を開こうとして、言葉が喉の奥で張り付いたように止まった。
イレーネの顔を正面から見たからだった。
怒っているのだと思っていた。
あれほど不条理なことをされたのだ。
怒り狂っていて当然だとも思っていた。
違った。
悲しんでいる……。
いつものまっすぐな琥珀の瞳から、普段の凛とした強さが消えていた。
長く彼女を知っているレオンだからこそ、その瞳の奥の微かな揺らぎが分かった。
けれど、なぜそんな顔をしているのかまでは分からない。
婚約を破棄されたからなのか。
第二練習艦隊を奪われたからなのか。
それとも、今の王との面会で何かあったのか。
聞けなかった。
ただ、全身で近づくことを拒んでいる。それだけは分かった。
「……イレーネ」
いつものように肩に手をやることも、気の利いた軽口をたたくこともできない。
ただ、絞り出すように名前を呼ぶことしかできなかった。
琥珀色の瞳がレオンの顔をしばらく見つめていた。
その一瞬が、ひどく長く感じられた。
それから、赤い唇の端がほんの少しだけ上がった。
しかし、いつもの太陽のような笑顔にはならなかった。
ただ一言だけ。
「今日はごめん。今度ね」
「……ああ」
それしか返せないレオンを残し、イレーネは再び前を向いた。
ゆっくりと玄関へ向かって歩いていく靴音がどこか寂し気に響いていた。
レオンは追わなかった。いや、追えなかった。
もう一度、その背中に名前を呼びかけることもできなかった。
開かれた玄関の向こうには、夕闇に沈み始めた王都が見える。
王城の出口へ向かって遠ざかっていく赤い髪を、レオンはただ黙って見送る。
夜の闇に、イレーネの背中が呑まれていくのを、拳を握りしめて見つめることしかできなかった。
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