第28話 人は思うほど簡単には動かぬ
その頃、王城では――
コンスタンティンは、久しぶりに寝台を離れていた。体調が戻ったわけではない。
昨日、式典で起きたことを聞き、寝台に横たわったまま息子と向き合う気にはなれなかっただけだ。
王として。そして、父として。
窓から差し込む朝の光が、静かな私室を満たしている。
コンスタンティンは窓辺の椅子に腰掛け、何を見るでもなく遠くの空へ目を向けていた。その傍らには杖が立て掛けられている。
やがて、静寂を破るように侍従がアレクシオスの到着を告げた。
「父上。お呼びとのことですが」
アレクシオスが入室し、確固たる足取りで父の前まで進み出る。
「座りなさい」
促され、アレクシオスは向かいの椅子へ腰を下ろした。
しばし、重苦しい沈黙が続く。
先に口を開いたのはコンスタンティンだった。
低く掠れた声だった。だが、その声音には王としての威厳が宿っている。
「昨日のことは聞いた。イレーネとの婚約を破棄したそうだな」
アレクシオスは真っ直ぐに王を見据える。
「はい」
「第二練習艦隊も解隊した」
「そのとおりです」
コンスタンティンは無言でしばし、息子の顔を見つめた。
その瞳に、何ら後悔も迷いもない。
「ニコラスとは相談したのか」
「しておりません」
返答は早かった。
「なぜだ」
「必要がないと考えました」
コンスタンティンの目が、わずかに細められた。
「……必要がない?」
「はい」
「これは、私が決めるべきことだからです。いずれ王位を継ぐのは私です。いつまでも父上やニコラスに判断を委ねるわけにはまいりません」
目の前の王子は堂々と胸を張り、自信にあふれている。
コンスタンティンはしばらく黙っていた。
「決めることと、意見を聞くことは別だ」
「もちろん理解しております」
アレクシオスはすぐに答える。
「ですが、今回は自分で判断すべきことだと思いました」
その答えに、コンスタンティンは低く息を漏らした。
何も考えていないわけではない。
むしろ、よく考えている。
だからこそ、危うい。
「お前が建国以来の悲願として、西へ向かうことを重視していることは分かっている」
「はい」
「そのために、海へ向けていた力を西へ振り向けるつもりなのだろう」
「そのとおりです」
王国が永遠に海だけを見続ける必要などない。
だから、それ自体を否定するつもりはなかった。
「西方へ兵を進めるつもりか」
「必要であれば」
「西方諸侯はどうする」
アレクシオスは、わずかに首を傾げた。
「どうする……」
一瞬、視線が窓の外へ流れた。だが、それもほんの刹那のことだった。
「協力を求める必要があるのですか?」
「どういうことだ?」
コンスタンティンには、息子の意図が読めなかった。
窓から入り込んだ風が、カーテンをわずかに揺らす。
「はい。王命として兵を出すよう命じればよいだけでしょう」
コンスタンティンは傍らの杖に手を添えた。
指先が、使い込まれた木肌を強く握りしめる。
「彼らが従わなければ?」
今度こそ、アレクシオスは不思議そうな顔をした。
膝の上に置いた手に、無意識に力がこもる。
「なぜ従わないのです?」
コンスタンティンは杖を取り、軽く床に打ち付けた。
杖の頭に両手を置き、姿勢を正して、改めてアレクシオスを見た。
「彼らにとって、我々は侵略者だ」
アレクシオスの眉間にしわが寄る。
「ですが父上。先日、父上ご自身がお話しになったではありませんか」
「何をだ」
「西征を止め、四十年近くをかけて国を立て直し、民族融和に努めてこられたと」
アレクシオスは少し身を乗り出した。
その目に宿るのは父に対する、迷いのない信頼と尊敬だ。
「ヴァレンティア家も、シルヴァンも、今では王国の諸侯です。税を納め、王国の法に従い、同じ国に生きている。それを成し遂げられたのは父上ではありませんか」
コンスタンティンの目がわずかに細められた。
「だから、彼らは従うと?」
「王国の諸侯なのですから、当然ではありませんか」
アレクシオスの答えに、いささかの戸惑いもなかった。
「むしろ、いつまでも征服された者として扱う方が、父上が四十年かけて成し遂げられたことを否定することになりませんか」
コンスタンティンは大きく息を吐いた。
椅子の背に身を預け、わずかに姿勢を崩す。
「では、第二練習艦隊を解隊したことについては、どう考えている」
「外洋政策を改める以上、必要性は低いと判断しました」
間違ったことは言っていない。
「人員は」
「第一練習艦隊へ回し、海兵として再編します」
「艦艇は」
「海軍で運用します」
「解隊された者たちは、それで納得すると思うか」
アレクシオスは即座に頷いた。
「花形の海兵として再編されるのです。不満を持つ理由がありません」
長年その艦に乗ってきた者の誇りや愛着については、彼の頭に浮かんでもいないようだった。
コンスタンティンは、杖の頭に添えた片方の手で、もう一方の手を軽くさすった。
乾いた皮膚の感触が、嫌でも老いと病を自らに突き付けて来るかのようだった。
「では、タラシア家が王都から手を引いた後、海軍海運局や工廠はどうする」
「もともと王国の組織です。必要なものは王国で引き継ぎ、そのまま維持すればよいでしょう」
ここでも、流れるように答えが返ってくる。
コンスタンティンは瞳を閉じ、しばし息子の声に耳を傾けた。
「タラシア家の者が抜けてもか」
「必要な者を残し、足りなければ補充します」
「すぐに補充できるのか」
「海軍とて長年運営してきたのですから、人がいないわけではないでしょう。すぐにすべてとは言いませんが、最低限必要な分は集まるでしょう」
息子の何が危ういのか、ようやく見えてきた気がした。
純粋すぎる。
もう少し、現場を見させてやるべきであったか。
忸怩たる思いがチクリと胸を刺す。
「王都の他の事業についても同じ考えか? タラシア家以外にも船主や商人は大勢いる。必要なら、そちらに任せればすむと」
「はい。王都中の人がいなくなるわけでもないのですから、何が困ることがあるのですか」
コンスタンティンは、目を開き、再びアレクシオスの瞳をじっと見つめた。
「その結果、長年続けてきた仕事を失う者がいてもか」
「それは……」
アレクシオスは言葉を止める。
背筋を伸ばしたまま、膝の上の指先だけがかすかに動いた。
初めてだった。ここまで淀みなく続いていた答えが、途切れた。
コンスタンティンはそれ以上、追及しなかった。
椅子の背に深く身を預け、ゆっくりと息を吐く。
「アレクシオス」
「はい」
「お前の考えは分かった。人は、お前が思うほど簡単には動かぬものだ」
アレクシオスの顔がわずかにこわばる。
「王が命じたから従う。仕事があるから人が集まる。代わりがいるから何とかなる。理屈ではそうだ」
コンスタンティンは、手にした杖の頭を親指でゆっくりとなぞった。
「だが、人にはそれぞれ思うところがある。お前が正しいと思うことと、皆がお前の思うように動くことは、同じではない。それだけは忘れるな」
「……承知しました」
納得はしていないのだろう。
胸に広がった諦念が、これ以上息子を諭すことに意味はないと告げていた。
それでも、コンスタンティンは最後に言い聞かせるように、わずかに頷いた。
「先日、今後はわしからは何も言わぬと言ったこと、覚えているか」
アレクシオスは顔を上げ、目だけでうなずく。
「西へ向かうことも、海へ注いできた力を減らすことも、それ自体が間違いだとは言わぬ。それゆえ、お前の決定を覆すつもりはない。おまえの好きにせよ――」
コンスタンティンはいったん言葉を切り、杖に添えた両手へ視線を落とす。
そして、一つ一つ噛みしめるように言葉を続けた。
「――ただし、自ら下した決断の結果は、すべて自ら背負いなさい。たとえそれがどんなに不本意な結果であろうとも。それだけは忘れずにしなさい」
自分の判断を、父が認めてくれた。
歓喜が胸に湧き上がったが、アレクシオスは緩みそうになる表情をどうにか押さえた。
――好きにせよ
その一言だけが、耳の奥で何度も響いた。
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