第27話 その先へ
翌朝。夜半頃から降り出した雨もすっかり上がり、朝から強い日差しが王都を照らしていた。
開け放たれた窓から入り込む風にも、すでに夏の熱が混じっている。
壁には昨日はなかった大きな王国の地図が張られている。
昨夜と同じ広間には、再びタラシア家の者たちが集まっていた。
何やら木の棒を右手に持ったイレーネは、いつもとは違って髪を高くまとめている。
昨夜は皆の前で一通り話して、よく眠れたのだろうか。今日はどこかすっきりしているようだった。
そして、集まった顔を一通り見回した。
「昨日は遅くなったから切り上げたけれど、まだ続きがあるわ」
いつもと違うイレーネの姿をいぶかしんでいた何人かが姿勢を正す。
「まあ、昨日の夜は悪巧みみたいな話ばかりだったけど」
イレーネは愉しげに、口元を悪戯っぽくほころばせた。
「でも、昨日の話はまだ内緒だからね」
イレーネは左手を腰に当てたまま、背筋をぴんと伸ばし、右手の指示棒を一同へ向けた。
「少なくとも、こちらの準備が整うまでは。余計なところから話が漏れて、邪魔されたくないもの」
皆が頷くのを確かめてから、イレーネは表情を緩めた。
「じゃあ今日は、もう少し前向きな話をしましょう」
くるりと地図へ向き直る。
右手に持った棒で、壁に広げられた王国の地図の一点を指す。
「アルカディアでは、これから海運に大きく投資するわ」
全員が棒の先、アルカディアへ集まる。
「船も造る。港も広げる。倉庫もいるし、荷物を運ぶ人もいる。船を造るなら、木材も帆も索具も船具も必要になるでしょう?」
イレーネは指先で、地図の上のアルカディアを軽く叩いた。
「だから、そのことを広く知らせてほしいの」
「広く、と申しますと?」
パウロの問いに、イレーネは頷いた。
「大きな商会だけじゃないわ。小さな船を一隻持っているだけの船主でもいい。独立して仕事をしている船乗りでもいいし、船を修理する工房でもいい」
左手の指を折りながら続ける。
「船具、帆、索具を作る職人。港で荷を扱う人たち。倉庫を持っている商人。造船に関わる職人なら、直接船を造っていなくても構わないわ」
今度は指示棒が王都へ移った。
そこからアストラ川に沿うように、ゆっくりと滑っていく。
「それから、アストラ川の船乗りたちにも声を掛けて」
「河川水運も、でございますか」
「もちろん。海だけじゃないわ。川を使って荷を運べる人たちも、これから必要になるもの」
木の棒はアストラ川の上流、ゴヤの街まで進む。
そこで向きを変え、ゴヤから分かれた西アストラ川を南へ下り、カストル半島の先、ネイモまで落ちていった。
イレーネは皆の方へ向き直った。
「それと、アルカディアへ移ってくる人だけを集めるわけじゃないからね」
何人かが疑問に満ちた視線を向ける。
「移りたい人は歓迎する。でも、支店を出すだけでもいいし、新しく商売を始めてもいい。今ある商売をアルカディアまで広げるだけでもいいわ」
全員を見渡して、微笑む。
「アルカディアと一緒に商売を大きくしたい人なら、誰でも歓迎する。そう伝えて」
「それでも、かなりの人数が動く可能性がございますが」
今日は最前列の卓についていたベアトリスが、いつもの抑揚のない声で尋ねた。
「そのつもりよ」
イレーネは屈託なく答えた。
「来てくれるなら、こちらもそれなりのものを用意しないとね。土地でも、税でも、支度金でも。できることはいろいろあるでしょう」
そこで、何かを思い出したように指を一本立てる。
「あ、それから。ギフト持ちはできるだけ集めて」
「ギフト、でございますか?」
「ええ。船や港で役に立ちそうなものなら何でも。筋力、足、目、耳……ほかにもあるでしょう?」
イレーネは指示棒の先をこめかみに当て、しばし目を閉じた
「……役に立つか分からなくてもいいわ」
パウロがわずかに眉を寄せた。
「お嬢様。今ひとつ、おっしゃっている意味が分かりかねますが」
「こじつけでも何でもいいから、仕事を作って」
イレーネは事もなげに答えた。
何人かが、どういうことかと首をかしげる。
イレーネは手にした指示棒で、ぱしっと左の手のひらを軽く叩いた。
「鼻が利くなら、倉庫で荷物の傷みを見つけられるかもしれない。足が速いなら走使。夜目が利くなら夜警。耳が良ければ見張りにも使えるわ」
「なるほど。使い道の方を、こちらで考えると」
「何ができるかじゃなくて、何に使えるかを考えて」
イレーネは再び皆を見回す。
「本人が『こんなギフト、何の役にも立たない』と思っていても、とりあえず話を聞く。そのくらいでいいわ」
イレーネから一番遠い席に座る若い男が、どこか愉快そうに口を開いた。
椅子の背もたれにふんぞり返って足を組んでいるその姿は、お世辞にも行儀のよい態度ではない。
「ずいぶん手広く集めるんっスね」
すぐさまベアトリスが、氷のような鋭い視線を向ける。
だが、男はどこ吹く風である。
「人はいくらいても困らないもの――」
イレーネは二人の様子を見て、くすりと笑った。この場にいるのだから、何かしら使える男なのだろう。ベアトリスには苦労掛けてるようだが。
「――せっかく持って生まれた力なんだから、使わない方がもったいないでしょう?」
そこまで言って、イレーネはふと口を閉じた。
指示棒を手の中で軽く弄びながら、何かを考える。
やがて「あ」と小さく声を上げた。
「そうそう。さすがにこれはお父様に言わないとね」
広間にさざ波のような笑いが広がった。
その中で、パウロが静かに口を開く。
「『できれば、決める前に相談してほしかった』と、コンラッド様のお声が聞こえてくるようでございます」
イレーネの指示棒を弄んでいた動きが止まった。
「……まだ決めたわけじゃないわよ」
「すでに皆様へ指示を出されておりますが」
「……」
イレーネはパウロをじっと見つめた。
パウロも、いつもの穏やかな表情のまま、少しの揺らぎもなく見返している。
「動き始めれば、決めたも同じかと。コンラッド様なら、そのように仰るのではないでしょうか」
しばしの沈黙。
「……そうとも言うわね」
今度は何人かが堪えきれずに吹き出した。
イレーネの口の端が、わずかに引きつった。
王都におけるタラシア家の権益をどう処分するかなら、イレーネに任されている。
だが、アルカディア本領で大規模な投資を行い、商人や職人を優遇するとなれば話は別だった。土地も使う。金も使う。税にも関わる。
さすがに領主である父ミハイルに何も言わずに決めていい話ではない。
「パウロ」
「昨日出した船とは別に、もう一隻用意して。一番速い船を」
「かしこまりました」
「今夜までに、昨日決めたことと、今話したことを全部書簡にまとめるわ。明日の朝、できるだけ早くアルカディアへ出して」
「そのように手配いたします」
「優遇策については、お父様とコンラッド兄様にも考えてもらいましょう。さすがにそこまで勝手に決めたら、本当に怒られるわ」
これには、広間にいた全員――、眉をひそめていたベアトリスさえも、小さく肩を揺らすしかなかった。
「すでに十分お叱りを受けるかと存じますが」
パウロが淡々と付け加える。
「パウロ」
「はい」
「今日はよく喋るわね」
「恐縮です」
イレーネは呆れたようにため息をつく。
それでも口元には笑みが残っている。
「それから――レアンドロ・ペトラ様に会いたいわ」
今度は、何人かが顔を見合わせた。
ネイモ領主にして、王国の商工大臣。
そして王国でも有数の商人一族、ペトラ家の当主である。
海運だけではない。
河川交易、商業、物流。
これからアルカディアが海運を大きく広げていくのなら、無視できる相手ではなかった。
「できるだけ早く、お時間をいただけるようお願いして」
「こちらへお招きいたしますか?」
「いいえ。私から伺うわ。そこはレアンドロ様の都合に合わせて」
パウロは静かに頭を下げた。
「委細、承知いたしました」
イレーネはしばらく地図を眺めていた。
昨夜決めたのは、王都から何を持って帰るか。
今日決めたのは、その先だった。
アルカディアに何を作るのか。
誰と商売をするのか。
そして、誰に来てもらうのか。
「……とりあえず、こんなところかしら。それじゃ、解散」
イレーネは指示棒を卓の上へ置き、ようやく椅子に腰を下ろした。
人々がそれぞれ席を立ち、広間を出ていく。
ふんぞり返っていた若い男も、ベアトリスに睨まれながら、どこか楽しげに足早に去っていった。
やがて話し声も足音も遠ざかり、広間に静けさが戻った。
イレーネは背もたれに身体を預け、深く息を吐いた。
傍らでは、パウロがお茶を用意する小さな音だけが聞こえている。
窓の外では、朝から強い日差しが王都の街並みを照らしていた。
夏はまだ、終わりそうになかった。
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