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アルカディア建国記 ー女提督は静かに切れる 婚約破棄から始まる独立戦記ー  作者: 尾道 汀
第2章 王都撤退への布石

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第26話 王都撤退

話は海軍だけでは終わらなかった。


王都には、タラシア家が直接経営する工房や商会がいくつもある。

船具、帆、索具、木工、金属加工。

海軍とは直接関係のないものまで含めれば、長い年月をかけて王都に根を張った事業は少なくない。


特に圧倒的な力を誇るのが長距離輸送だ。

海にしろ河川にしろ、長距離を一気に渡る。

一日一日、どこかに停泊する他の輸送とは、速さも、かかる手間も段違いだった。

それはタラシア家の事業を支える、大きな柱の一つとなっていた。


「直接経営する工房や商会、海運も全部、整理します」


今度こそ、卓を囲む者たちから悲鳴が上がった。


「すべて、でございますか?」


隣の卓からベアトリスが恐る恐る声をかける。

王都でのタラシア家事業をまとめる、年配の女だ。

いつも隙なく身なりを整え、冷静沈着で度胸もある。

何を頼んでもすぐに意図を理解し、的確に動く、打てば響く才女だった。

しかし、そのベアトリスですらイレーネの決定には動揺を隠しきれない。


「王都にある直営のものはね」


イレーネは慌てる一同にも動じず、凛として頷いた。


「親方や責任者には、アルカディアへ戻る準備を始めてもらって。工房も商会も、向こうで新しく立ち上げます」


「弟子や雇われている者たちは?」


「本人に選んでもらって」


答えは先ほどと同じだった。


「王都に家族がいる人もいるでしょうし、ここで暮らしたい人もいるでしょう。無理に連れていく必要はないわ」


「アルカディアへ行きたいという者はいかがいたしましょう?」


「もちろん歓迎します」


イレーネはうれし気に目を細めた。


「向こうはこれから、人手がいくらあっても足りなくなるもの」


「しかし、それだけの事業を一度にアルカディアへ移せば……」


「全部は移さないわ」


イレーネは言葉を遮った。


「ネイモにも移します」


「ネイモへ?」


広間がわずかにざわつく。

ネイモは王国西部にある大商業都市で、王国でも一、二を争う規模を誇る。

セルカーン帝国との交易の玄関口でもあり、タラシア家も古くから支店を構えていた。


「ええ。王都から手を引くからといって、王国で商売をやめるつもりはないもの」


イレーネは卓の上に視線を落とした。


「東のアンティアにも、その先の沿岸にも、昔から付き合っている商人がいる。セルカーン帝国との商売だってある。それを全部捨てる必要なんてないでしょう?」


何人かが頷く。


「ネイモ支店を、これからは王国内の中心にします。王都で扱っていた仕事のうち、向こうで続けられるものはできるだけ移して」


イレーネはベアトリスに手短に指示を出す。


「かなり大きな支店になりますな」


パウロがゆっくりと感想を述べる。


「支店じゃなくなるわね」


イレーネは腕を組み、指を顎に当てて、しばし考えた。


「王都本店もなくなるし、ネイモ本店、ということにしましょうか」


「では、その取りまとめは――」


パウロがそこまで言ったところで、イレーネは視線を上げた。


「コンラッド兄さんにお願いしましょう」


一瞬の沈黙。広間に何とも言えない微妙な空気が流れる。


「確かにコンラッド様は、交易の件で現在ネイモに滞在していらっしゃいますが……」


「ちょうどいいじゃない」


「かなりの仕事量になるかと」


イレーネはパウロと目を合わせ、次にベアトリスを見る――

軽く両手を打ち合わせた。


「まあ、頑張ってもらいましょう」


二人とも何とも言えない顔をした。

イレーネは眉を八の字にして、悪戯っぽくはにかんだ。


「ちゃんと私から手紙を書くわよ」


「大変結構なことかと。お嬢様」


パウロはいつにも増して慇懃に礼をする。


「なによ、その言い方」


今度は卓のあちこちから笑いが漏れた。

イレーネは少し口をとがらせたが、すぐに表情を戻した。


「ということで、王都からは手を引きます。でも、これまで付き合ってきた人たちまで切るつもりはないわ」


イレーネはベアトリスへ顔を向けた。


「悪いけど、ベアトリス。コンラッド兄さんともよく話して、こっちの引き揚げを仕切ってちょうだい。アンティアでも、ネイモでも、ほかの港でも。これまでどおり私たちと商売をしたいという人がいるなら、こちらから断る理由はありません」


「王都の商人についても、これまで通りお付き合いを続けるということで、よろしいでしょうか?」


落ち着いた声音でベアトリスが確認する。


「もちろん」


イレーネは顔をほころばせながら即答した。


「私たちが王都から出ていくことと、王都に暮らす人たちを敵にすることは別の話よ」


広間が静かになる。


「ただ――」


イレーネはわずかに目を細めた。

穏やかだった琥珀の瞳が、刹那のうちに刃のような鋭さに変わる。


「タラシア家が王都で持つ地位と権益は、すべて返せと殿下は仰った」


誰も口を挟まない。


「なら、そのとおりにしましょう」


冷ややかな声だった。

開け放たれた窓から、わずかに湿り気を帯びた夜風が入り込み、イレーネの赤い髪を揺らす。


「人も、物も、仕事も。私たちのものは全部持って帰る」


パウロがイレーネを見つめた。


「よろしいのでございますね」


「ええ。先にタラシア家を切ったのは、あちらよ」


イレーネの声音は、さらに冷たく、氷のように硬くなった。


「だったら、私たちが自分のものを持って帰っても、文句を言われる筋合いはないわ」


ほのかに揺らめく魔晶灯のオレンジの光が、イレーネの赤い髪を燃えるように紅く際立たせていた。


長い年月をかけてタラシア家が築いてきたものを、この街から引き揚げる。

それが王都に何をもたらすのか。

イレーネには当然分かっていた。

それでも、もう決めていた。

王都から、タラシア家を引き揚げる。


窓の外では、街の灯がいつもと変わらず夜の中に瞬いていた。

その夜、王都の誰にも知られぬまま、そのための準備が始まった。


お読みいただきありがとうございます。

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