第25話 海軍からの引き揚げ
しばらくして――
広間にはいくつかの卓と椅子が用意され、その上にはパンやチーズ、燻製肉などの簡単な食事と飲み物が並べられていた。
窓の外はすでに暗く、磨かれた窓硝子には広間の様子がぼんやりと映り込んでいる。
先ほどまで立っていた者たちも、今はそれぞれ席についている。
イレーネも卓の一つにつき、しばらく食事を口にしていた。
ただ一人、パウロだけはイレーネの傍らに立ち、いつものように給仕をしていた。
やがて、イレーネが手にしていたカップを置く。
「さあ。じゃあ、ここから具体的な話をするわ」
自然と皆の顔が上がった。
「まず、第二練習艦隊のこと」
何人かが姿勢を正した。
「解隊そのものは今日、殿下から宣言されました。でも、艦艇をどうするのかまでは、まだ決まっていないはずよ」
「はい。少なくとも、正式な処分については何も」
パウロの言葉に、イレーネが頷く。
「なら、海運局と工廠に連絡して。第二練習艦隊の艦には、当面手をつけさせないで」
「艦艇だけでよろしいですか?」
「備品も資材も全部。修理中のものがあるなら、そのまま作業を続けてもらって。できる限り、今の状態を保ってほしいの」
海軍海運局から来ていた男が困惑を隠せず口を開いた。
「海軍省から、他艦への転用や備品の移動を求められた場合は?」
「適当にごまかして、あしらっておいて」
あまりにもあっさりとした答えに、何人かが顔を見合わせた。
「確認が必要だとか、担当者が不在だとか、まだ引き渡しの手続きが済んでいないとか。何でもいいわ」
イレーネはパンを小さくちぎった。
「正式な処分が決まるまでは、できるだけ時間を稼いでほしいの」
「正式な命令が下りた場合は、いかがいたしましょう」
「そのときは私に知らせて。勝手には動かさないで」
男は引きつった笑みを浮かべながら、頷いた。
イレーネは何食わぬ顔で、ちぎったパンを口へ運ぶ。
パウロがその様子を見ながら、わずかに眉を寄せた。
「ですが、お嬢様」
「何?」
「すでに解隊を宣言された艦隊でございます。そこまでして残しておく必要が?」
イレーネは口の中のものを飲み込み、カップへ手を伸ばした。
「捨てるというのなら、私がもらうわ」
茶目っ気たっぷりに片目をつぶった。
一瞬、皆の動きが止まった。
パウロも黙ってイレーネを見つめている。
だが、イレーネは何事もなかったようにカップを傾けた。
「それから、もう一つ」
カップを戻す。
「練習生たちのこと」
今度は、イレーネの表情からわずかに笑みが消えた。
「第一練習艦隊へ移して、海兵として鍛え直すことになっているそうね」
「そのようです」
先ほどの男が答えた。
「……あの子たち、怒ってるでしょうね」
何人かの顔に苦笑が浮かんだ。
「はい、お嬢様。かなり、と聞いております。第一練習艦隊へ行くくらいなら海軍を辞める、と言い出した者もいるとか。中には、もう荷物をまとめ始めた者までいるそうです」
イレーネが少し眉を上げ、傍らのパウロを見上げる。
「もうそこまで聞いてるの?」
「軍港の者から、つい先ほど」
イレーネも目尻を下げて、あきれたように微笑んだ。
「ずいぶん贅沢な人の使い方をするものね。一年かけて、それなりに使える水兵に仕込んだ子たちを、今度は海兵に転換するっていうんだもの。船乗りとごろつきを一緒にされたら困るわ」
何人かが笑いを堪えるように口元を緩めた。
「まあ、将校連中は『敵船に乗り込んでの白兵戦こそ騎士の誉れ』なんて叫んでるから、あれでも温情のつもりなんでしょうけど」
イレーネは呆れたように肩をすくめた。
「あの人たち、それこそ馬がいたら、馬ごと敵船に乗り込むわね」
最初は命令されたことをこなすだけだった少年たちも、一年の訓練ですっかり変わった。
風が変われば誰より先に帆を見上げ、船足が伸びれば歓声を上げ、少しでも速度が落ちれば何が悪いのかと騒ぎ出す。
いつの間にか、誰もが立派な船乗りの卵になっていた。
そんな彼らに、今度は海兵として白兵戦を一から学び直せというのだ。
不満が出ない方がおかしい。
「一人ずつ、これからどうしたいのか内密に聞いてみてほしいの」
イレーネは海軍海運局の男へ目を向けた。
「第一練習艦隊へ行って海軍に残るのか。それとも――」
男は弾かれたように背筋を伸ばす。
「アルカディアへ来たいのか」
卓を囲む者たちの間に、かすかな緊張が走った。
「ただし、勧誘はしないで」
イレーネは釘を刺すようにすぐに続けた。
「来いとも言わない。海軍を辞めろとも言わない。ただ、本人がどうしたいのかを聞いて」
男が慎重に探るように尋ねる。
「海軍に残ると言った者については?」
「何もしないで。家族の事情もあるでしょうし、海軍に残りたい子もいると思う。それは本人が決めることよ」
イレーネは少し考え、付け加えた。
「アルカディアへ来たいと言った子については、こちらで受け入れる準備をします。ただし、すぐに海軍を辞めさせないで」
「第一練習艦隊へ行かせるのですか?」
「ええ。一月だけ我慢してもらうわ。私たちが王都を引き払うまでは、今までどおりにしていてもらって」
男は少し考えてから尋ねた。
「海軍省には?」
「もちろん、言わないで」
即答だった。その声に迷いは一切ない。
「今の段階で、タラシア家が練習生を引き抜いていると思われるのは困るわ。一人ずつ聞いて、本人にも他の誰にも話さないよう伝えて」
「全員に、でございますか」
「ええ」
イレーネは頷いた。
「誰が来ると言ったのかも、誰が残ると言ったのかも、互いに知らなくていい。今はまだね」
男はつばを飲み、ゆっくりと首を縦に振った。
「承知しました」
イレーネはカップへ手を伸ばした。
「まずは、二つ。第二練習艦隊を、できるだけ今のまま残すこと。それから、あの子たちが本当はどうしたいのかを聞くこと」
少しだけ考えてから、付け加えた。
「ほかのことは、そのあと」
そう言って、イレーネは静かにカップを傾けた。
卓を囲む者たちは、しばらく誰も食事へ手を伸ばさなかった。
パウロがイレーネの空いた皿を下げる音だけが、かすかに広間に響いていた。
やがて、パウロが口を開く。
「お嬢様。海軍に関しては、ほかにもございます」
「ええ」
イレーネはカチャリと小さな音を立ててカップを戻した。
「殿下は、タラシア家が海軍で持つ地位と権益をすべて返上せよと仰ったのでしょう?」
「そのように」
「なら、お返しするわ」
あまりにも簡単な答えだった。
「海軍海運局から、うちの人間を全員引き揚げて」
海軍海運局の男が絶句し、限界まで目を見開く。
「ぜ、全員、でございますか」
「ええ。海図の作成も、測量も、海象観測も、航海記録の整理も。タラシア家から人を出しているところは全部」
「それでは、海運局の業務が……」
「困るでしょうね」
イレーネはあっさりと答えた。
「でも、権益を返上しろというのは殿下よ。権益だけ返して、これまでどおり人を出して仕事を続けろというのは、おかしいでしょう?」
男は返す言葉を失った。
ポケットからハンカチを取り出して、額を拭く。
「資料館も整理して。うちが所有している海図や測量記録、航海記録は全部アルカディアへ送ります」
今度は別の男が不安げに眉をひそめて尋ねた。
「海軍省が認めますでしょうか。国費を使って作成したものも少なくありません」
「王国のものまで持っていくとは言ってないわ」
イレーネの声は変わらなかった。
「誰のものなのか、一つずつ確認して。王国のものは残す。タラシア家のものは持ち帰る。それだけよ」
「判断がつかないものは?」
「こちらのものだと主張できるなら、こちらのものとして扱って」
パウロがわずかに眉を上げた。
「揉めるかと存じますが」
「でしょうね」
イレーネは平然と頷いた。その唇の端には、かすかな笑みすら浮かんでいる。
「でも、先に全部返せと言ったのは向こうよ。今さら都合のいいものだけ残せと言われても困るわ」
何人かが小さく頷いた。
「官営の調査部門についてはいかがいたしましょう」
官営の海運事務局に勤める女が声を上げた。
「そこも同じ。うちから出している人には戻ってきてもらって」
「九割近くになりますが、よろしいのでしょうか」
「仕方ないわ」
「……ほとんど、事務局の業務が立ち行かなくなりますが」
「それはもう私たちが考えることではないでしょう?」
イレーネは不思議そうに首を傾げた。
誰も何も言わなかった。
「ただし、一部はネイモへ移します。セルリア海の観測も測量も、これからも必要だもの。ネイモ支局を大きくして、そちらで続けてもらって」
「承知いたしました」
海運事務局の女は苦笑しながら、うなずいた。
「海軍工廠はいかがなさいましょうか? お嬢様」
パウロの問いに、イレーネは少し考えた。
「海軍工廠は話が違うわね。あそこは王国と共同で運営しているもの」
「ご認識の通りかと」
「建物も王国側の設備も、そのまま。設計図や資料も、王国のものには触れないで」
そこで言葉を切る。
「でも、うちから派遣している職人と技術者には帰ってきてもらいます。本人の工具や、タラシア家から持ち込んだ設備も全部」
「技術については?」
やや離れた卓から誰かが尋ねた。海軍士官服を着ている。
海軍工廠にいるルシウスの部下なのだろう。
イレーネは一瞬きょとんとした。
「技術?」
「長年、工廠で培ってきた造船や修理の技術です。海軍省から、それも王国の財産だと言われる可能性が」
イレーネはしばらく相手を見つめた。
「……頭の中にあるものまで置いていけというの?」
卓のあちこちから小さな笑いが漏れた。
「それは知らないわ」
今度ははっきりと笑い声が上がった。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだ。
「了解です」
男も破顔しながら返事をした。
海軍工廠の同僚だろうか、同じ士官服を着ている男と肩を叩き合っている。
そういえば。イレーネはふと広間を見回した。ルシウスはいない。相変わらず海軍工廠で図面とにらめっこなのだろう。
イレーネも小さく笑ってから、表情を戻す。
琥珀色の瞳が魔晶灯の光を受けて鋭く輝く。
「一月でやって。全部」
「一月でございますか……」
さすがのパウロも、わずかに目を開く。
「私たちが王都を出るまでに終わらせます」
パウロが静かに頭を下げた。
「委細、承知いたしました」
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