第24話 王都から退きます
階下の広間には、王都におけるタラシア家を支える主だった者たちが集まっていた。
屋敷を預かる者。王都での家政を担う者。
そして、長年にわたりタラシア家の仕事を任されてきた者たち。
誰もが突然の招集に、硬い表情でイレーネを待っていた。
部屋に入ってきたイレーネの姿に、ざわめきが静まった。
つい先ほどまで身につけていた濃紺の士官服ではない。
柔らかな上衣に細身のパンツ。アルカディアでは見慣れた、飾り気の少ない装いだった。
イレーネは家人たちの前まで進んだ。
その傍らにはパウロが立っている。
見慣れた顔ばかりだった。
王都で過ごした年月を、ともにタラシア家を支えてきた者たち。
この顔ぶれが、この広間にこうして集まるのも、あとわずかだろうという予感がイレーネの胸をかすめる。
すでに何が起きたのか知っている者もいるのだろう。
何人かの目は、隠しきれない動揺に揺れていた。
――イレーネは深く息を吸った。
「みんな、忙しいところ集まってくれて、ありがとう。パウロから聞いている人もいると思うけれど、改めて私から話します。今日、修了式の席で、アレクシオス殿下から婚約を破棄すると宣告されました」
わずかに空気が揺れた。イレーネはかまわず、落ち着いて言葉を重ねる。
「同時に、第二練習艦隊の解隊と、私の海軍提督位の返上。それから、タラシア家が王都と海軍に持つ地位と権益を、すべて返上するよう求められました」
今度は、はっきりとざわめきが起きた。
パウロが無言で視線を向ける。
それだけで、広間は再び静まり返った。
「この件については、先ほど国王陛下にもご報告してきました」
何人かが息を呑む。
「陛下からいただいたお言葉は、一つだけです」
イレーネは言葉を切った。広間の誰もが、固唾を呑んで次の言葉を待つ。
「『好きにしなさい』と」
静寂が落ちた。
王はイレーネを見捨てたのではない。むしろ全幅の信頼を寄せ、大海へ解き放ったのだと、聡明な者は気づき始めていた。
「アレクシオス殿下はいずれ王位を継がれます。遅くとも来年には、その予定です。であれば、今日殿下が示された意思は、遠からずこの国の意思になると私は考えています」
淡々とした声だった。
「そして、皆も知っているとおり、王都におけるタラシア家のことは、父から私に一任されています」
イレーネは一度パウロを見る。
パウロは確信をもってわずかに頷いた。
イレーネは再び家人たちへ向き直る。
「ですから、私が決めました。タラシア家は、王都から退きます」
誰も声を上げない。
だが、何人かの表情が明らかに強張った。
「この屋敷も、一か月ほどを目処に引き払います。皆にも、基本的にはアルカディアへ戻ってもらうことになります」
そこでイレーネは少しだけ声を和らげた。
「ただし、王都に家族がいる人もいるでしょう。ここで暮らしてきて、もう王都を離れたくないという人もいると思います」
家人たちの中に、イレーネは一人の侍女の姿を見つけた。
長くタラシア家に仕えてきた女性だった。
王都で夫と出会い、今では二人の子供がいる。夫はこの街で生まれ育った人だ。
イレーネはその顔に一瞬だけ目を留めた。
「残りたい人は、遠慮なく申し出てください」
一歩、家人たちへ近づいた。
「それを理由に責めることも、不利益を与えることもありません。次の勤め先が必要なら、できる限りこちらで探します。だから、自分と家族のことを一番に考えて決めてください」
言い終えると、イレーネはしばらく待った。
申し出る者はいなかった。
もっとも、今この場で答えを求めるつもりもない。
「返事はすぐでなくていいわ。家族ともよく相談して」
イレーネはそっと目をつむる。
「ここまでは、これからの話」
ゆっくりと目を開いた。
先ほどまでの柔らかな眼差しに、静かな決意が混じる。
「ここからは、私の話をします」
家人たちの視線が吸い寄せられるように集まった。
「今日、私は大勢の前で婚約を破棄されました。それだけなら腹は立つけれど、私一人のことだから、我慢もできたと思う」
何人かの口元がわずかに動いた。
イレーネ自身も、ほんの少しだけ苦笑する。
だが、その表情はすぐに消えた。
「でも、殿下はタラシア家を侮辱した」
琥珀色の瞳から、先ほどまでの柔らかさが消えた。奥底の冷徹な怒りが、広間の温度を下げる。
「私たちが王家から与えられた地位と権益を当然のものと思い、恩を忘れ、思い上がっていると。大勢の前で、そう仰った」
イレーネは動かなかった。
声を荒らげることもない。
ただ、その目だけが冷たくアレクシオスの言葉を拒絶していた。
「それだけは、許すつもりはありません」
広間は静まり返っていた。
「だからといって、殿下のお言葉に逆らうつもりもありません」
イレーネは言葉を続ける。
「殿下が我々に王都から退けと仰るのであれば、そのとおりにしましょう。地位も返します。権益も返します。海軍からも手を引きます」
そこで、イレーネはわずかに目を細めた。
「でも」
短い一言だった。その響きに、誰もが息を止める。
「私たちが長い年月をかけて築いてきたものまで、置いていく理由はないわ」
イレーネはパウロへ視線を向けた。
パウロは何も言わない。
真っ直ぐにイレーネだけを見て、その視線を受け止める。
「人も。技術も。仕事も。私たち自身の手で築いたものは、可能な限りアルカディアへ持って帰ります」
イレーネは再び家人たちへ向き直り、片手を小さく広げた。
「殿下は、タラシア家を必要ないと仰った。ならば、そのお言葉どおりにしましょう。私たちはただ、自分たちのものを持って帰るだけよ」
誰もが微動だにせず聞いていた。
先ほどまでとは違う沈黙だった。
その言葉が何を意味するのか。
ここにいる者たちは、もう理解していた。
イレーネは一人一人の顔を見渡した。
誰も目を逸らさなかった。むしろ、その瞳には主人と同じ決意の光が灯り始めている。
やがて、その表情が、ふっと緩んだ。
「これから一か月、少し忙しくなるわ」
いつものような笑みが戻る。
「みんな、力を貸して」
一瞬の静寂。
傍らのパウロが、イレーネへ向き直った。
深く頭を下げる。
「承知いたしました」
それに続き、家人たちも一斉に頭を下げた。
イレーネはその様子を見て、少しだけ表情を緩めた。
「ありがとう」
それから、集まった者たちを見回す。
「でも、ここから先はもう少し話が長くなるわ。みんなも疲れたでしょう」
張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。
「座って、何か食べながら話しましょう」
イレーネはパウロへ顔を向ける。
「ここで話せるようにしてもらえる?」
パウロはすぐに数人へ指示を出した。
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