第23話 希代の王
自室に入ると、すでに柔らかな灯りがともされていた。
放たれた琥珀色の光が、部屋の隅の影を優しく溶かしている。
寝台の上には着替えが用意されている。
ドレスではない。柔らかな生地で仕立てられた上衣と細身のパンツ。
飾り気は少ないが、仕立ての良さは一目でわかる。
その傍らでは、侍女が静かに控えてイレーネを待っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま」
侍女がいつものように歩み寄り、イレーネの背後へ回ろうとする。
「今日はいいわ」
侍女の足が止まった。
「ですが――」
「自分でやりたいの」
一瞬の間を置いて、侍女は静かに頭を下げた。
「かしこまりました」
イレーネは腰へ手を伸ばした。
留め具を外し、剣帯をゆっくりと解く。
長く腰に下げてきた剣だった。
鞘ごと両手に取り、しばらく見つめてから、そっと机の上へ置く。
乾いた音が、静かな部屋に小さく響いた。
次に、士官服の留め具へ指をかけた。
一つ。
また一つ。
急ぐことなく、自分の手で外していく。
王都で過ごした日々が、ひとつずつ胸をよぎった。
楽しいことばかりではなかった。
腹を立てたことも、悔しかったこともある。
アレクシオスとの婚約が決まってからの三年間も、決して穏やかなことばかりではなかった。
それでも――悪い日々ではなかった。
王宮で過ごした時間。
王都で結んだ友人たちとの縁。
海軍で出会った仲間たち。
そして、一年間を共に過ごした第二練習艦隊の練習生たち。
笑ったこともあった。
叱ったこともあった。
皆で同じ、遠く続く青い海を見たこともあった。
最後の留め具を外す。
士官服を脱ぎ、イレーネは両手に抱えた。
濃紺の生地にゆっくりと指を滑らせる。
袖口には、何度も着続けたわずかな擦れが残っていた。
それはイレーネが長きにわたって駆け続けたきた証でもあった。
「……この制服も、今日で終わりね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
しばらく眺めたあと、イレーネは士官服を侍女へ差し出した。
「きちんと畳んでおいて」
「はい」
侍女は両手で受け取り、丁寧に士官服を畳み始めた。
イレーネは洗面台へ向かう。
張られた水に両手を浸すと、その冷たさにわずかに息を止めた。
水をすくい、顔を洗う。
もう一度。
冷たい水が頬を伝い、顎から雫となって落ちた。
顔を上げる。
鏡の中には、見慣れた赤い髪と琥珀色の瞳がある。
けれど、そこに海軍士官の姿はもうなかった。
イレーネはしばらく鏡の中の自分を見つめた。
ふと、王の言葉が蘇る。
――好きにしなさい。
短い言葉だった。
それでも、その意味をイレーネは分かっていた。
引き留めようと思えば、できたはずだ。
王命をもってアルカディアへ帰ることを禁じることもできた。
アレクシオスの決断を覆すことだって、王ならばできた。
けれど、あの人はそうしなかった。
息子の決断を尊重しながら、自分のことも縛らなかった。
最後まで、自分で選ぶことを許してくれた。
イレーネは目を伏せた。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
怒ってはいない。
むしろ逆だった。
あの人の常に公平で、それでいて不器用な優しさが分かるからこそ、つらかった。
もう一度、鏡を見る。
「……希代の王ね」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
ほんのわずかに、口元が緩んだ。
「お願い」
「はい、お嬢様」
今度は侍女に任せた。
上衣に袖を通し、パンツを身につける。
動きやすく身体に馴染む、アルカディアでは見慣れた装いだった。
昼間に感じた重苦しい空気から解き放たれたかのように、身軽に感じた。
最後に、侍女が足元へショートブーツを置いた。
履き慣れた、お気に入りの一足。
数日前に「令嬢らしくありませんわ」とカサンドラに呆れられた靴だ。
ただ、この靴だけは特別だった。
レオンも褒めてくれたブーツ。
自分が自分らしくあるための一足。
イレーネはそのつま先を見つめ、ふっと表情を緩める。
修了式で、カサンドラから逃げ出したことをふと思い出した。
「……カサンドラ様にも、迷惑かけちゃうわね」
侍女は何も言わなかった。ただ、黙ってブーツを履く主人を温かな眼差しで見つめている。
イレーネはブーツへ足を入れ、しっかりと紐を締める。
立ち上がり、鏡の前で上衣の襟を整えた。
そこにいるのは、もう海軍提督でも、第二練習艦隊司令官でもない。
けれど、鏡の中にいる自分は、何も変わっていないようにも見えた。
イレーネはその姿をしばらく見つめる。
そして、両手で軽く頬を叩いた。乾いた音が室内に響き、残った感傷を完全に吹き飛ばす。
「よし」
踵を返す。
その動きに合わせて、鮮やかな赤い髪がふわりと揺れた。
階下では、すでに家人たちが彼女を待っている。
イレーネは迷うことなく、部屋を後にした。
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