第18話 ニコラス第二王子の不安
一方、ニコラスの執務室では、北の街道で起きた土砂崩れによる流通の混乱に、ようやく目処が立とうとしていた。積み上げられた報告書に目を通し終えると、疲労の滲む目元をこすり、小さく息を吐く。
そのとき、静寂を破るように扉を叩く音が響いた。
「失礼いたします」
入室してきたのは、外務大臣ダミアン・カリストと、その息子レオンだった。二人の表情は硬く、ただ事ではない空気を纏っている。
「ニコラス殿下。拙息がセルカーン帝国について新たな情報を得たと申しております。お耳に入れておくべきと考え、参りました」
「分かりました。今、書類を片付けます」
ニコラスは書類を手早くまとめると、二人をソファへ促した。
向かいに腰を下ろし、おもむろに口を開く。
「それで」
レオンは姿勢を正し、深く一礼した。
「現地の情報員より報告がございました。ここ数か月、セルカーン帝国内で兵の移動が活発になっております」
「国境ですか」
「いえ。帝国内各地です」
ニコラスの眉がわずかに動く。
「艦隊は」
「目立った動きはございません」
「……なるほど」
レオンは続けた。
「断定はできません。しかし、国外への備えというより、国内を意識した動きのように見受けられます」
「内乱でしょうか」
「可能性はございます。半年から一年ほどの間に、何らかの大きな動きが起こるものと予想されます」
しばらく沈黙が流れた。ニコラスの脳裏に、先ほど別れた兄アレクシオスの晴れやかな笑顔がよぎる。
「兄上には」
ニコラスの問いに、ダミアンが静かに首を振る。
「まだ、お伝えしておりません」
「なぜです」
「この段階では確証がございません。アレクシオス殿下にお伝えしても、お取り合いいただけないかと」
ニコラスは静かに頷いた。確証のない海の向こうの事情など、兄ならば耳を貸すまい。ましてや、父上の外洋政策を支持するダミアンからの報告となれば、なおさらだろう。
「分かりました。私から兄上には伝えておきましょう」
「お願いいたします。急ぎませんので」
ダミアンは深く頭を下げた。
そして、少し言いにくそうに視線を落とし、口を開く。
「ところで殿下。陛下とは、お話をされたとうかがいましたが」
「そうですね――」
――やはり、そちらが本題か。
ニコラスは王とのやり取りを簡潔に語った。
ダミアンは腕を組み、しばらく考え込む。その眉間には深いしわが寄っている。
「……やはり、危うい」
「兄上ですか」
「はい」
ダミアンは静かに頷いた。
「王太子殿下が、建国以来の悲願を果たそうとなさっていることも、武をもって国を拡大しようとするお気持ちも、私にはよく分かります。軍事強国たる我が国の誇りを重んじられることも、王族として当然のものでございましょう」
一度言葉を切り、ゆっくりと続ける。
「ですが、王太子殿下は、武力で解決できる問題と、そうでない問題とを、同じ秤で量っておられるように見受けられます」
ニコラスは黙って耳を傾ける。
「セルカーン帝国が揺らげば、揺れるのは帝国だけではございません。北の物資はアストラ川を下り、プシュケ海峡を越えて諸国へ渡ります。海の向こうの品々もまた、同じ道をたどって王国へ届く」
「経済そのものが揺らきますか」
「はい。海は静かだからこそ価値があります。交易は滞り、物価も上がり、王国の経済そのものが揺らぎます」
ダミアンは小さく息を吐いた。
「外交も、交易も、人の思惑もございます。にもかかわらず、殿下には、力をもってすれば道は開けるとお考えの節がございます。そのためか、王太子殿下は国外の情勢を、少々軽くご覧になっているように思えてならないのです」
「兄上は、西だけをご覧になっている」
「……私も、そのように思います」
執務室に重い沈黙が落ちる。
やがてニコラスは立ち上がり、窓の外へ目を向けた。暗闇の向こうに広がる海を見つめる。
「父上は、それを案じておられたのかもしれません」
明日から一週間ほど、北の街道の視察に赴かなければならない。
戻り次第、兄に話そう。
父上のお言葉の真意を。
兄ならば、血を分けた弟の言葉の耳を傾けてくれるはずだ。
信じていた。だが、その思いを兄へ伝える機会は、ついに訪れなかった。
後に、それを深く後悔することになるとは、このときのニコラスは夢にも思わなかった。
お読みいただきありがとうございます。
気に入っていただけましたら、ブックマーク・評価いただけると嬉しいです。




