第15話 父の言葉
夜も更け、王城は静寂に包まれていた。
窓の外には深い闇が広がり、時折、城壁を巡る近衛兵の靴音だけが遠くで聞こえる。
寝台で身を横たえる王の傍らには、アレクシオスが無言で立っている
その影は、魔晶灯の微かな光に揺れて壁に長く伸びていた。
すると、扉が開き、ニコラスが入ってきた。
「父上。お呼びとのことですが」
ニコラスは父のそばに立つ兄を見ると、何も言わず、その左側へ並んだ。
横目で兄を一瞥するも、再び父の方を見る。
その横顔には、微かな困惑が浮かんでいた。
二人を呼んだということは、何か大事な話があるのだろう。
ニコラスは静かに王の言葉を待った。
「来たか。ニコラスよ。アレクシオスの話は聞いたか」
尋ねる王の顔色は昼間よりも幾分悪かったが、眼差しは力を失ってはいなかった。
「いいえ何も。昼間は北の街道の件で城の外に出ておりました。少し前に戻ってきたばかりです」
「そうか。苦労をかけるな」
王の顔に、地道な仕事を黙々とこなす次男への慈しみがこもる。
「昼間に、イレーネが挨拶に来た。その時にアレクシオスに伝えたのだ。1年後に王位を譲り、同時にイレーネとの婚姻を行うと」
ニコラスは目を見開き、右を向く。
アレクシオスは表情一つ変えず、ただ静かに弟を見返した。
「本当だ」
僅かな沈黙の後、
「……おめでとうございます」
ニコラスは恭しく頭を下げた。
「ニコラス」
王が再び口を開く。
「おまえが武勇に恵まれず悩んでいたこともわかっている。馬を駆り、武を示すことが王族の美徳とされる我が国では、ずいぶん苦労したことも。だが、おまえには人の話をよく聞く耳、周りを見渡す目がある。そして、物事を冷静に判断する力もある。それは、おまえにしかない長所だ。だからその才をもって兄を支えてほしい――」
ニコラスは静かに目を閉じた。
「はい。必ずや」
そして、王に深く礼をした。
顔を上げたその目には僅かばかり涙がにじんでいる。
続いて王は、アレクシオスの方に目をやる。
「アレクシオス。おまえは武勇に優れ、勤勉でもある。果断なところも、剛毅な面も王として申し分ない。誇るが良い」
アレクシオスの口角が僅かに上がる。自らの才を改めて認められたという満足が、その表情によぎった。
「だが前を見すぎて、周りを見落とすことがある。周りはおまえほど優秀ではない。たまには立ち止まり、ついてくる者たちの話を聞きなさい。そして、弟を頼りなさい。そうすれば良い王となるだろう。それと――」
王は深く息を吐く。
「――イレーネを大事にしなさい。かの一族は、こちらが厚く遇すれば、必ず応えてくれる。わが国にさらなる繁栄をもたらしてくれるだろう」
「……はい」
アレクシオスは返事を返すものの、その表情は、僅かにこわばっていた。その目は、父が望む海ではなく、別の場所を見つめているようだった。
王はそれを見逃さず、小さく苦笑する。だが、咎めはしない。
「おまえが西へ目を向けていることは知っている。それを否定するつもりもない」
王は一息置き、息子をまっすぐ見据えた。病床にあるとは思えぬほどの、絶対的な王の威厳がそこにはあった。
「だが、もう一度言う。イレーネを愛しなさい」
「はい」
その返事は従順だった。だが、その返事を聞いた王の表情から、憂いが消えることはなかった。
◇
しばし、部屋に静寂が満ちる。
窓の外では夜風が梢を揺らしていた。
夏の余熱が残る王城を、ゆっくりと冷ましていた。
王はゆっくりと息を整えると、二人を見渡した。
「少し昔話をしよう。わしが王位を継いだのは、まだ十七の頃だった」
過去を懐かしむかのように、遠い目をして話し始めた。
その声は掠れながらも、寝室の隅々までよく通った。
「西へ、西へと版図を広げてきた我が国の伝統にならい、父もまた征西を繰り返していた。しかし、ある戦で運悪く流れ矢に当たり、命を落とした。
王となったわしに残されていたのは、度重なる遠征によって疲弊した国庫と、戦に疲れた民だけだった。わしは征西を即座に取りやめ、国の中へと目を向けた。王太子教育も終わらぬまま即位した若造に、重臣の多くは反発した。
『我が国の悲願を何と心得るか』
『先王の志を踏みにじる気か』
……そう責め立てられた。弱腰だと罵る者さえいた」
王は自嘲気味に、わずかに笑った。
「それでも、わしは内政に力を入れた。兵を減らし、農業や商業に金を回し、各地を巡って民族融和に駆けずり回った。
おまえたちも、知っておろう。北のヤルク大森林に住むシルヴァンの民を。今でこそ従順だが、当時は何度も反乱を繰り返し、その鎮撫だけで何年も費やしたものだ。
そうして四十年近く費やした。ようやく国は豊かになり、外へ目を向ける余裕が生まれた。
もちろん、わしのもとを去った者も多い。内へ目を向けたことは間違いだったのではないか――そう迷う日々も続いた」
王はそこで言葉を切った。しばらく天井へ視線を向けたまま動かない。かつて背負った孤独と重圧を思い出しているのかもしれない。
ニコラスは思わず一歩前へ出ようとしたが、王は小さく首を横に振る。
まだ話は終わっていない。そう告げるように、王はゆっくりと視線を二人へ戻した。
「だが、アレクシオス。これだけは覚えておきなさい。王たるもの、一度口にしたことは、軽々と翻すことはできぬのだ。このことを、しっかりと胸に刻みなさい。
今後、わしからは何も言わぬ。あとは、自分が王として正しいと思う道を歩むがよい。話はそれだけだ」
「……はい。父上。ありがとうございます」
アレクシオスは、ニコラスと同じように恭しく頭を下げた。
だが、その顔は伏せられていた。
口元は、こみ上げる歓喜を抑えきれず、大きく歪んでいた。
背後では、興奮を押し殺すように握り締めた拳が、白く強張っていた。
その拳に気づいたのは、ニコラスただ一人だった。
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