第11話 再認識
梓紗が消しゴムを構える
「今度は、もう少し速く投げます」
一瞬の間のあと、腕が振られる
さっきより速い、軌道も低いし回転も強い
――遅い
分かってる。でも追いつかない
視線がぶれる、位置が掴めない
「……っ」
――無理に合わせるな
一瞬、思考が止まる
――固定するな
「は?」
その瞬間、消しゴムが視界の端を抜ける
避けきれない
当たる、と思ったその瞬間、反射で言葉が出る
「――止まれ」
次の瞬間、音が消えた
廊下の空気が、そのまま止まったみたいに動かない
そして、水色が走る
光でも線でもない
空間の輪郭だけが薄く浮かび上がる
消しゴムの周りから床、壁、視界の端まで“なぞるように”広がる
一瞬だけで、すぐに消えた
消しゴムだけじゃない
落ちかけていた紙も、揺れていたカーテンも、全部が止まっている
「……なに、これ」
梓紗の声が遅れて届く
次の瞬間には動きが戻る
消しゴムがコト、と床に落ちる
遅れて世界が繋がる感覚
呼吸が少し乱れる
「……今の、葵がやったのか」
「……分からない」
狙ってない
ただ止めようとしただけだ
消しゴムだけのはずだった
――範囲が広がった
「……は?」
――精度が崩れた
結果、周囲まで固定した
「それ、まずいんじゃないのか」
――制御できれば問題ない
短く返される
納得はできない
梓紗がゆっくり息を吐いた
「……今の、見えました水色の……何か線みたいな、空間の輪郭が浮かんでました」
こっちを見る視線が少し鋭くなる
「あなた、今……空間ごと触りました?」
「そんなつもりはない」
少しの沈黙
梓紗が小さく頷く
梓紗が消しゴムを拾い上げる
軽く重さを確かめるように指で転がす
「……そんなもの、古書には載っていませんでした」
「言霊の範囲を明らかに超えています。少なくとも、私が知っているものとは別です」
「だから、もう一つだけ試させてください。“止める”じゃなくて、“ずらす”方です」
「……ずらす?」
「位置を固定できるなら、少しだけ外すこともできるはずです。軌道そのものを変える形になります」
一瞬考える
――可能だ
「できるらしい」
梓紗が小さく頷く
少し距離を取る
「今度は当てます。その直前で、軌道を外してください」
「難易度上げてきたな」
「必要ですから」
短く返される
一瞬の間
腕が振られる
消しゴムが飛ぶ
さっきより速い、一直線に近い軌道
――追うな
分かってる
視線を固定する
空中の一点じゃない
通る“線”で捉える
――遅い
間に合わない
距離が詰まる
もう近い
「……っ」
――そこだ
一瞬だけ見える
通過するはずの位置
「……ずれろ」
言葉を落とす
次の瞬間、また水色が走る
さっきより細い
一点だけ、空間の輪郭が歪む
消しゴムの軌道が、わずかに外れる
肩に当たるはずだったそれが、数センチずれて通り過ぎる
後ろの壁に当たって、乾いた音を立てる
コツ、と転がる
少しだけ静かになる
「……今の」
梓紗がゆっくり口を開く
「軌道、変えましたよね」
「……多分な」
完全じゃない
でも当たらなかった
――精度は上がっている
「……そうかよ」
息を吐く
梓紗が壁に当たった消しゴムを見る
「止めるより難しいはずなんですけど……」
小さく呟く
「それでも成立している」
視線が戻る
「やっぱり、その“声”が補正してますね」
――当然だ
「……らしい」
短く返す
少しの沈黙
梓紗が一歩近づく
「もう一つ、確認したいことがあります」
「まだやるのか」
「はい。これが一番大事です」
真っ直ぐ見る
「それ、“どこまで届きますか”」
一瞬、意味が分からない
「距離か?」
「距離もそうですけど、それだけじゃないです。範囲、規模、対象」
少しだけ間を置く
「さっきは周囲まで巻き込みましたよね」
呼吸がわずかに重くなる
「……ああ」
梓紗が続ける
「それ、広げられますか」
空気が少し変わる
――やめておけ、壊れるぞ
珍しく、先に声が落ちる
「……なんでだ」
――現時点では過剰だ
短く返る
梓紗がわずかに目を細める
「……今、止められました?」
「ああ」
そのまま返す
少しの沈黙
梓紗が小さく息を吐く
「……分かりました。じゃあ、それは今はやめます」
一歩引く
「代わりに、条件を絞りましょう」
視線が落ちる
「対象を限定して、精度だけ上げる方に」
「……地味だな」
「暴走するよりはいいです」
即答だった
少しの沈黙、梓紗がわずかに考える
「……理論上ですけど」
「位置を固定できるなら、“移動先を固定する”こともできるかもしれません」
「……それって」
「結果的に、移動に近いことになります」
少しだけ間を置く
「ただし」
「人でやるのは危険すぎます」
「じゃあ試すか?」
「やめてください」
即答だった
「失敗した場合、どうなるか分かりません」
梓紗が続ける
「まずは小さいものでやりましょう。無機物で、範囲も限定して」
「……さっきの消しゴムか」
「はい、それで十分です」
軽く持ち上げる
「今度は“ここ”じゃなくて、“あそこ”に移すイメージで」
廊下の少し先を指さす
「途中を操作するんじゃなくて、位置そのものを決める形です」
少し息を吐く
「……また難しそうだな」
「さっきよりは、ですけど」
小さく言う
「できる可能性はあります」
梓紗が消しゴムを持ち直す
視線で位置を示す
「……あそこです。床のあの線の手前」
「そこに“ある状態”を作ってください」
「……途中は無視ってことか」
「結果だけでいいです」
「“そこにある”って決める感じで」
その言い方に少し引っかかる
――決める?
「……また難しそうだな」
「さっきよりは、ですけど」
梓紗はそれ以上説明しない
空気が少し重くなる
消しゴムを見る
今の位置じゃない
“あそこにあるべきもの”
頭の中で位置をなぞる
距離、角度、床との関係
まだ甘い
――粗い
「分かってる」
視線を細める
“見る”じゃない
“そこにある状態を成立させる”
その感覚に少し引っかかる
――そこだ
輪郭が一瞬だけはっきりする
「……行くぞ」
「――座標転移」
言葉が落ちた瞬間、水色が走る
空間が一瞬だけ“薄くずれる”
消しゴムが揺れた
消えたように見えて、次の瞬間には指定した位置に転がっている
コト、と小さな音
狙った場所からは少し外れている
それでも、確かに“移っている”
「……今の」
梓紗が消しゴムを見下ろす
「移動してますね」
「……一応な」
視線を外さないまま言う
手応えはある
でも完全じゃない
さっきより重い
頭の奥が少しだけ熱い
――精度はまだ低い
「分かってる」
梓紗がゆっくりしゃがむ
消しゴムを拾う
「途中は繋がってません。やっぱり“位置だけ”を直接書き換えてる」
立ち上がる
「これ、かなり特殊です」
「普通じゃないってことか」
「はい」
短く返す
消しゴムを手の中で転がす
「でも、方向は合ってます」
「……そうかよ」
視線を落とす
さっきの感覚がまだ残っている
“そこにある状態を作る”という感覚
ただの移動じゃない
世界の方を合わせてくる感じ
――悪くない
声が落ちる
「……悪いな」
小さく呟く
「何がですか」
梓紗が顔を上げる
「いや」
そこで言葉を切る
うまく説明できない
でも一つだけ分かる
これを続ければ、もっと“ズレる”
いい意味でも、悪い意味でも
梓紗が少しだけ目を細める
「次は、精度を上げましょう」
梓紗が消しゴムを机に置く
「よし次は、もっと大きいものでやってみましょう」
「……まだやるのかよ」
「今のうちに感覚を固めた方がいいです」
視線が少しだけ廊下の方へ向く
次の対象を探すみたいに
そのときだった
「お前ら、もう帰る時間過ぎてるぞ」
低い声が廊下から飛んでくる
反射で顔を上げる
担任だった
腕を組んで、呆れたようにこっちを見ている
「まだ残ってたのか」
「……すみません」
梓紗が一歩下がる
「実験してたら時間忘れました」
「実験ってなんだよ」
先生の視線が教室じゃなく、廊下の空気ごと確認するように動く
「まぁいい、早く片付けて帰れよ」
そう言ってため息をつく
「戸締まりも忘れるなよ」
そのまま足音が遠ざかる
静けさが戻る
梓紗が小さく息を吐く
「……続きは、またですね」
「だな」
視線を落とす
まだ手の中に“さっきの感覚”が残っている




