第2話 剥がれ落ちた尊厳
サークル棟の二階、突き当たりの部室。
窓の外はすっかり夜の帳が下り、古い蛍光灯がジジッ、と不快な音を立てて明滅している。
他サークルもほとんどが帰宅したのだろうか、夕方まで続いていた外の喧騒も耳にしなくなって久しい。
つい先ほどまで、数人の後輩たちが気まずそうに書類を片付けていたが、俺と結衣のいつもの『衝突』が始まると、当てられた熱気に耐えかねたように部室を後にしていった。
今は、この閉鎖的な空間に二人きりだ。
結衣は、午前中は就活だったようで、黒のリクルートスーツ姿のままで部室に来ていた。
疲れからか、いつも以上にイライラしていることも感じ取れるほどだった。
「……だから言ってるでしょ。あなたのその『その場しのぎ』の返事が、予算の計算をどれだけ狂わせてるか分かってるの?」
結衣は机を指先で叩きながら、俺を睨みつける。眼鏡の奥の瞳は、一分一秒たりとも俺のミスを見逃さないという執念に満ちていた。
「わかってるよ。でも、急に機材が壊れたんだから仕方ないだろ。融通を利かせるのが運営の役割じゃないのか?」
「融通?それは無能な人間が使う言葉よ。計画性がないからそうなるの。……そもそも、あなたっていつもそう。大事なところで詰めが甘いし、自分の失敗を『状況のせい』にする。そんなんだから、いつまで経っても……」
言葉のナイフが、次々と俺の自尊心を削っていく。彼女は正しい。いつだって、ぐうの音も出ないほどに正しい。だが、その正しさが今は猛烈に反吐が出た。
脳裏に、動画の残像がフラッシュバックする。ライトブルーのチノパンを股下までぐっしょりと濡らし、男に追われて泣きべそをかいていた、あの無様な姿。
もちろん、そういった企画であることには違いないのだが、今、目の前で俺をゴミのように見下しているこの女の『裏側』が、俺の網膜の裏で嘲笑うように踊っている。
「どうしてあなたみたいな人がこのサークルにいるのか……!」
どこまでも俺を刺し続ける結衣の言葉に、プツンッと俺の中で何かが切れる音がした。
「……もういい、黙れよ」
「黙らないわ。あなたが自分の非を認めて、具体的な改善策を出すまでは……」
「黙れって言ってるんだよ!」
ドンッ、と机を叩いた。自分でも驚くほどの大きな音に、結衣がびくりと肩を震わせる。
だが、俺の怒りはもう止まらない。理性という、自らを律していた紐が一瞬で焼き切れ、いつからだろうか、我慢に我慢を重ねた思いが堰を切ったようにあふれ出す。
「何だよ、そんなに自分は完璧だって言いたいのかよ。規律? 計画性? ……笑わせるなよ。お前、自分が裏で何してるのか忘れたのか?」
「……な、何の話? 急に大声を出して……」
「映像見たぞ」
一言、吐き捨てた。
結衣の動きが、凍りついたようにピタッと止まる。
「わからないか?ほら、ここから少し行ったところにある公園で。お尻を出して。……何してた?」
数秒の沈黙の後、結衣は鼻で笑うような声を漏らした。だが、その口角は引き攣っている。
「……はぁ?何、寝言言ってるの?AVか何の話?そんなのに私が出てると思ったの?そんな目で私を見てたんだ、うわっ気持ち悪い。人違いもいい加減にして!……ほんと最悪。」
息を継がせぬ勢いで、一気にまくし立てる。
「人違い? ……じゃあ、なんで、おまえと同じ姿で、おまえと同じ訛りで喋ってるんだよ。イントネーションまで、普段のおまえそのままだったぞ」
「……そんなの……似てる人なんていくらでもいるでしょ!」
「何本か出てたよな?」
被せるように放った俺の声が、低く部室に響いた。カマをかけてみた。
ビクッとした反応に、当たりだ、と確信した。
「追いかけられて歩きながら、どんどんズボンの色が変色してさ。股の間から太ももまでおしっこで濡れて。地面にまで染みになって続いてた。結衣って……おもらしが趣味なの?」
「……」
結衣の手がワナワナと震えだす。
俺の言葉は、同時に『俺もまた、そういう趣味を持っていて、隅々まで観察していた』という自白に他ならなかった。だが、今の俺にはそれを自覚し、羞恥を感じる暇すら残されていなかった。
ただ、目の前の憎き同級生の仮面を剥ぎ取りたいという衝動だけが、脳内を真っ白に染め上げていた。
「……よーしわかった!このまま俺が疑われっぱなしは嫌だからな。今から、家に帰って取ってくるわ。なぁ、一緒に見て、別人だって確認しようぜ。違ってたら土下座でも何でもするわ。サークルだって辞めてやる。」
「……」
「そういえばタイトルは何だっけなぁ。『緊急事態! 公園の物陰で……』」
「もうやめて……っ!!」
結衣の手から、持っていたペンが床に転がり落ちた。
彼女の顔は、もうすでに血の気がなく、まるで死人のような白さ。先ほどまでの強気な弁明は、一瞬にして霧散した。
静寂が、部室を支配する。結衣の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。彼女は声を上げて泣くことすらしなかった。ただ、溢れ出した涙が頬を伝い、机の上にポタリと落ちる。
憎しみ、軽蔑、絶望。それらが混ざり合った激しい視線で、彼女は俺をじっと睨み据えた。
「……何が、望みなの」
絞り出すような、掠れた声。俺は一歩踏み出し、彼女の顔を覗き込む。
「同じのを、ここで見せろよ。そうしたら、誰にも言わないでいてやる」
結衣の呼吸が、一瞬だけ止まった。
彼女はしばらくの間、無言で俺の顔を、涙を流しながら睨みつけていた。やがて、彼女はゆっくりと俺の右腕を強く掴んだ。
その力は、驚くほど強かった。
「……ちょ!おい!」
彼女は一言も発することなく、俺を睨んだまま、無理やり部室の外へと引きずっていく。
夜の静まり返ったサークル棟。就活用のヒールの高くない、黒のパンプスのコツコツという怒りにも似た音が廊下に響く。
腕を捕まれたまま、女子トイレの前へ辿り着いた。
結衣は入り口で一度立ち止まり、廊下や女子トイレに誰もいないことを確認する。
素早く俺の手を引いて洗面台の奥、一番端の個室へと俺を押し込み自分も続くと、彼女は泣き腫らした真っ赤な瞳で俺を射抜いたまま、震える手で扉の鍵を閉めた。
ガチンッ、という音が、この密室の完成を告げた。




