第1話 虚像の彼女
「……だから、そのやり方じゃ効率が悪すぎるって言ってるの。もっと全体のスケジュールを見て動いてよ」
サークル棟の片隅にある、埃の匂いが染み付いた部室。
午後の西日が差し込む中で、彼女――結衣の声が鋭く響いた。
俺と結衣は、この十数名程度の小さな文化系サークルの幹部だ。
同学年で、共に運営を支える立場でありながら、その方針を巡っては一歩も引かない。
「効率、効率って……。俺たちは会社をやってるわけじゃないんだ。部員一人ひとりのペースも考えなきゃ、誰もついてこなくなるぞ」
「それは甘えでしょ。あなたのその『優しさ』が、結果的にみんなの首を絞めてることに気づかない?」
結衣は眼鏡の奥の瞳を冷ややかに細め、俺を射抜く。整った顔立ちをしているが、その口から出るのは常に理詰めの正論だ。隙がなく、感情に流されず、常に完璧。それが俺の知る『幹部の結衣』だった。
サークルに入った当初は、少ないメンバー同士で知り合いも少なかったこともあって、仲が良かった。
彼女は、地方から出てきたこともあってその思いは余計に強かったであろう。
合宿やイベントを通して、何となく、お互いに男女として意識しあうこともあったように記憶している。
ところが、幹部学年に入って、お互いの主義主張がぶつかり合うことが増え、売り言葉に買い言葉、俺たちの関係性は悪化の道を辿る一方だった。
サークルには、俺たちを諫められるメンバーもおらず、むしろ、触らぬ神に祟りなしと、距離を置いたり関わらないようにしている素振りもあって、部室の雰囲気が悪くなっていることを肌で感じていた。
結局、その日の議論も平行線のまま終わり、俺たちは互いに一瞥もくれず部室を後にした。
その夜のこと。
ワンルームの狭い自室で、俺は今月のバイト代をはたいて買ったばかりの動画ファイルを開いた。
いくつものエピソードが収録されたオムニバス形式の企画モノ。俺には、誰にも言えない性癖がある。いわゆる『おもらし』モノをこよなく愛している。
厳選して選んだタイトルは『緊急事態! 公園の物陰で……』といった企画モノだ。
いくつかのシーンをスキップしながら眺めていると、あるチャプターで手が止まる。
(……え??あれ?)
心臓が、不自然なリズムで跳ねた。
ロケ地は、キャンパスから電車で三十分ほどの距離にある、俺もよく知る街中や公園の風景。
画面の中で、周囲の様子を伺いながら、公園に早歩きで入ってくる女性。
黒のトップスに、ライトブルーのチノパン。そのシルエット、歩き方、そして何より、焦燥に駆られて周囲をキョロキョロと見渡す横顔。
「……おいおい嘘だろ」
思わず声が漏れた。
眼鏡ではなく、普段とは髪型を変えているが……
結衣だ……!!
画面の中の彼女は、限界に近いのか、内股になりながら必死に隠れ場所を探している。
撮影班と申し合わせているのだろう。やがて、カメラマンが待機している、人目につかない大きな木の下に辿り着くと、彼女は周囲を一度だけ確認し、震える手でチノパンのベルトを解き、下着と一緒に膝まで下げてしゃがみ込んだ。
その時だった。
カメラを持った男が「何やってるんですか」と無遠慮に声をかける。
彼女が、弾かれたように肩を震わせて振り向いた。
『……っ!』
言葉にならない悲鳴を上げ、後ずさり、彼女はすぐさまズボンを履き直し、その場を立ち去ろうとする。
だが、男はしつこく追いすがる。
『あれ? 何か濡れてきてませんか。それ、おもらしですか?』
『ちょっと、やめてください……!』
その声を聞いた瞬間、俺の全身に鳥肌が立った。
最後まで赤の他人であることを祈っていたが、もう間違いない。
普段のサークルで俺に見せる、あの凛とした標準語ではない、焦りと羞恥の中で、隠しきれずに漏れ出した、独特の柔らかいイントネーション。
仲の良い友達と話をしている時に出る、彼女の出身地方特有の訛り……
彼女は逃げようと足を動かすが、股の間の緊張が切れたのか、歩くたびに、チノパンが、熱を帯びた水分を吸い込み、胯間から内股にかけてドス黒い群青色へと変色していく。生地が重く脚に張り付き、一歩踏み出すごとに不快な音を立てているのが、画面越しでも分かった。
足首まで伝い落ちる雫が、砂地の上に崩壊の証として、ボタボタと染みを残しながら続いていく。
『おもらしですよね?恥ずかしい。 隠しても無駄ですよ。今からどこに行くんですか』
『ついてこないで……っ、ついてこないでください!』
震える声。泣き出しそうな、それでいてどこか自暴自棄な響き。
間違いなかった。
俺の目の前で、いつも俺を無能だと、甘いと、正論で叩き伏せてくるあの『結衣』が、画面の中では、ズボンを無残に汚しながら必死に逃げ惑っている。
動画を停止させ、もう一度最初から確認する。
やはり、間違いはなかった。
(……明日からどんな顔で話せばいいんだ……)
知ってしまった。
彼女が隠している、深い闇の部分を。
この誰にも言えない秘密を、俺はどう扱えば良いのだろうか。
彼女の尊厳を、勝手に覗き見してしまった。……いや、絶対に見られたくない『汚物』を、俺だけが一方的に見てしまった。その罪悪感と、腹の底で疼く暗い高揚感が、俺を苛んでいた。
翌日、部室の扉を開ける手が、今までにないほど重かった。




