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第3話 共犯の扇形

サークル棟の女子トイレ――


冷え切った中、男子トイレとは違う、アンモニアの匂いを隠すかのような、微かに漂う甘ったるい香りが俺たちの体温と溶け合う。


女性の聖域に足を踏み入れた背徳感と、これから目の前で起きる『崩壊』への予感。

俺の心臓はうるさいほど跳ね上がっていた。



一番奥にある和式便所の個室。

二人で入るにはあまりに狭く、肩が触れ合うほどの距離。

結衣ゆい自身の、少し汗ばんだ、それでいて脳を刺激するような香水のオリエンタルな匂いがほのかに立ち昇ってくる。



「……満足?」


彼女が発した言葉は、それだけだった。

結衣はもう、言い訳もしない。絶望と憎しみが入り混じった瞳で俺を睨み据える。


するりと向きを変えると、俺を壁に押し付け、

通常、和式を使うのとは逆向きに、俺の方を向いて、便器を跨ぐように立った。



彼女はスラックスに手をかけなかった。ただ、そこに立ったまま。

ジャケットの裾をぎゅっと握る手に血管が浮き上がっている。

 

静寂があたりを包む。彼女の息遣いが聞こえる。




結衣は、覚悟を決めたかのように、息を吸って……止めた。

限界まで堰き止めていた『我慢』を、静かに、けれど完全に緩めた。


俺の目の前で、下腹部の出口をちらっとだけ一瞥し、再度俺を睨み付けた。



スラックスの中から、しゅぃぃーーっ……という、布地を透過して何かが弾け飛ぶような、くぐもった音がした。その音に釣られ、俺は出所を凝視してしまう。



相当な時間を、彼女は我慢し続けていたのだろう。その溜め込まれた熱量が、今、彼女の完璧主義という名の防波堤を突き破りはじめていた。

 

吸いきれなくなった奔流が、生地を完全に貫通していく。



まずは、股下から太ももにかけて、スラックスが艶のある漆黒に塗り替えられた。そこから雫が、便器に向かってチョポチョポ……と、音を立てて、途切れることなく落ちていく。


脚を伝い、スラックスの裾から溢れ出した流れの大部分は、パンプスを濡らし、便器に収まることなく、冷たい床へと躊躇なく広がっていく。


そのままタイルの目地に沿って広がり続け、個室の仕切り壁の隙間をくぐり抜け、個室の外まで続いていた。

 


結衣は泣き出しそうな顔を歪めながらも、視線だけは俺から外さない。俺を見せ物にするような、あるいは自分の恥部を刻みつけることで俺の罪を証明しようとするような、強烈な眼差し。

 

水音が止まり、静寂が戻る。

個室には、彼女の、温かく、トイレの匂いを何倍にも濃縮させたような匂いが満ちていた。



「……ほんとに漏らしたかどうかわからない。見せろよ。」

もうどうにでもなれ、と俺は、答えがわかりきったことをあえてぶつける。


結衣は荒い呼吸を整えながら、俺の声に応えるように、震える指先でスラックスのホックを外し、ジッパーを下げた。


膝までずり落とされ、彼女の「秘密」が露わになる。

 


グレーのショーツ――



シンプルな綿の下着の、その中心部が、扇形に、広く、深く濡れそぼっていた。

清潔感の象徴だった彼女の肌に、湿った生地がべったりと張り付いている。その無惨なまでの濡れ具合が、彼女のすべてが崩れ去ったことを物語っていた。


俺は、その扇形の染みを食い入るように見つめた。

結衣は、濡れた股間を晒したまま、俺の視線から逃げようともしなかった。ただ、溢れ出す涙を拭うことさえ忘れ、幽霊のような無表情で俺を睨み続けている。

 


「……これで、いいんでしょ」

彼女は力なくポツリと声を出すと、濡れて肌に貼り付く生地を引きずるようにして、履き直した。



「出てって。……もう、私の前に現れないで。……知らないから」

その声には、もう俺を論破した時の覇気はない。

ただ、すべてを晒した人間の、枯れ果てた拒絶だけがあった。




あの日以来、部室の空気は劇的に変わった。


どちらかがサークルを去る、という選択肢もあったかもしれないが、俺も結衣も、消極的に、その選択を取らなかった。ただ、かつてのように、どちらかが声を荒らげることは二度となかった。


結衣は以前と同じように理知的で、サークルの運営に誰よりも精を出していたが、俺と意見が食い違っても「……それでいいよ」と短く告げるだけになった。


俺もまた、彼女を論破しようという気概を失っていた。

彼女の正論を叩き潰そうと向き合うたび、あの女子トイレのタイルに広がった、救いようのない水溜まりの記憶が蘇るだけだからだ。


あの直後に、彼女が出演する映像をもう一本見つけたが、それも自分の記憶にだけ留めることにした。



「……これ、来月の予算案。確認しておいて」

「ああ。分かった」

交わされるのは事務的な、最低限の言葉。



周囲の部員たちは「二人が大人になった」「サークルが円滑になった」と喜んでいたが、その実態は、互いの致命的な恥部を握り合ったことによる、沈黙の均衡に過ぎなかった。


彼女が時折、無意識にズボンの裾を気にする仕草を見せるたび、俺の鼓動は嫌な速さで跳ねた。

彼女の脳裏にも、あの日の記憶が、呪いのようにこびり付いているのではないかと勝手な想像をしていた。



謝ることも、許し合うこともない。

俺たちはただ、卒業という名の『解放』が訪めるのを、息を潜めて待ち続けた。




やがて訪れた卒業式。

袴姿の結衣は、サークルの後輩たちに囲まれて、いつもの「完璧な幹部」として微笑んでいた。


式が終わった後、校門の近くで一度だけ、彼女と視線が合った。

彼女は一瞬だけ立ち止まり、何も言わずに、ただ一度だけ短く会釈をした。


連絡先、チャットの履歴はすぐに消した。

「じゃあね」という、ありふれた別れの言葉さえ交わさなかった。


二度と会わないこと。それが、あの日の一線を越えてしまった俺たちに残された、唯一の、そして最後の誠実さだった。




あれから数年。

社会人になった俺は、今も相変わらず、一人きりの夜に動画サイトを開く。


その後、映像の結衣と再開することは一度もなかった。

ただ、画面の中で、見知らぬ誰かが我慢の限界を迎え、崩壊していく。


姿の似ているモデルを見つけるたびに、心臓が跳ねる。脳裏に浮かぶのは、あの狭い個室の、湿った芳香剤と、温かい、おもらしの匂い。

膝まで下げられたスラックスと、グレーのショーツ。


その中心に広がっていた、あの無残で、あまりに鮮やかな『扇形の染み』。



何故、あんなにプライドの高い彼女が、ああいう映像に出演していたのか。

お金のためか、あるいは彼女もまた、逃れられない業を抱えていたのか。


あの日以来、俺たちの間には事務的な会話以外を拒む沈黙の壁が築かれ、その理由を聞くことさえできなかった。そして結局、真実は何ひとつわからないまま、俺たちは疎遠になった。



ふとした瞬間、結衣が俺を睨みつけていた絶望的な瞳を思い出す。

俺は彼女を汚し、彼女の記憶に大きな爪痕を残してしまった。けれど同時に、俺の性癖の根底にも、一生消えることのない彼女に対するトラウマも、深く、重く、沈殿している。



彼女が今、どこで誰と笑っているのかは知らない。

ただ、画面の中で広がっていく薄黄色の海を見つめるたび、俺は、女子トイレの鍵を閉めた瞬間のあの熱い高揚と、底なしの自己嫌悪を、何度でも反芻し続けるのだ。

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