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たった一杯の紅茶から



「....本当の、友達になれたら...」



温度が感じられない小さな空間の中、檻を隔てて悲しげに言葉を紡ぐアンナに、背中を向き続けるベアトリクスの指が微かに動いた。


アンナ・グランヴィル。


東の辺境の田舎領地の引きこもりで、純粋でお人好しで、とても健気な娘。


憎きアンドリューの最愛の双子の妹で、セドリック・レッドフィールドが愛した唯一の女。


誰からも疎まれることなく、当たり前のように愛されてきた、世間知らずなお嬢様。


ベアトリクスがこの世で一番大嫌いな部類の人間だった。


耳障りな幼くて柔らかい声で綺麗事ばかり吐いてくる。


なのに、何故彼女の言葉を無視することができないのだろうか。


アンナに気付かれぬよう、ベアトリクスは奥歯をキツく噛み締めた。



・



ベアトリクスは遠い昔、リスタータ王国の西の国境の領地を治める一家の一人娘として産まれたらしい。


しかし、ベアトリクスにその時の記憶はほとんど残ってはいない。


自我が芽生える前に、父親だった男が爵位と領地を取り上げられたおかげで、ベアトリクスには何もなかった。


名前は付けられていたようだが、ほとんど呼ばれたことはない。


思い出せる記憶を辿っていく限り、ベアトリクスの日常は悲惨なものだったらしい。


酒浸りになった男に大声で怒鳴られ、殴られる毎日。


同じ空間に母親らしき女もいたが、毎日変な匂いを漂わせながら惨めな現状を嘆き、無気力に涙を流し続けていた。


金になることはなんでもやらされた。


盗みや、詐欺なんて当たり前で、必要になったら身体でも、なんでも売った。


クズを活かすために生かされているんだと気付いたときには、ナイフで自分の喉を掻っ切ってやろうと試みたが、それすらも許されなかった。


生きる気力もなく、死ぬこともできない地獄の中で、ベアトリクスはただ息をしていた。


そんなある日、ベアトリクスを一晩買った男から紅茶というものを初めて飲まされた。


男はベアトリクスの出自を知っていたのか、その紅茶は彼女の産まれた土地で今もなお栽培されているものだと教えた。


初めて飲んだ紅茶の味はよくわからなかったが、温かな液体が体に流れ込んでいく感覚をベアトリクスはいつまでも覚えている。


その日からベアトリクスはその紅茶を飲めるときだけ、生きていると実感することができた。


息をするだけで吐きそうな日々だったが、温かな香りを思い出しては、歯を食いしばる。


いつ死んでもよかったが、死ぬのなら最後に生まれた地の紅茶を飲みたいと小さく願うぐらい、初めての執着がベアトリクスの中で根付いていた。


すっかり枯れ果てたクズが西国の人間を連れてきた時、結局自分は誰かに利用されるためだけに生まれてきたのだなと改めて己の無価値さを思い知らされることになったのだが、ベアトリクスにとってはもうどうでもいいことだった。


王国への復讐心なんてものはない。


ただ、毎日一杯の紅茶を飲むことができる。


それだけで十分だった。


いつか自分の身を滅ぼす計画だとわかっていても、それでもベアトリクスは迷わず身を投じた。


真っ当に生きることを知らないベアトリクスにとって、国の秩序を乱す側の人間になることに案外抵抗はなく、むしろ心地よかった。


言われるがまま行動を起こし、それがどんなに悪質な行為であろうと何も感じることはなかった。


王太子暗殺の計画も無謀だとは思っていたが、言われた通り、淡々と事を進めていった。


そんな中、計画をことごとく邪魔してくる男、アンドリュー・グランヴィルが現れた。


計画が失敗すると、拷問のような体罰が下され、紅茶も取り上げられてしまうので、ベアトリクスはアンドリューが憎くて仕方がなかった。


中々計画が進まず、痺れを切らせた西国の人間からアンドリューの暗殺を命じられたので、ベアトリクスにとっては願ったり叶ったりだった。


あんなに手こずったアンドリューの死は案外あっさりしたもので、やつが乗った馬車を細工したら奈落の底へと落ちていった。


これでようやく紅茶を取り上げられずに済むと思った矢先、今度は王太子の護衛、セドリック・レッドフィールドが邪魔になりつつあった。


アンドリューほど派手に動き回る男ではなかったが、常に王太子の側にいて、腕っぷしがかなり強かった。


派手なアンドリューと違って、セドリックは隙がない、というか何を考えているのかわからない男だった。


社交界でそこそこの名は馳せているはずなのに、これといった情報が出てこない。


本当にただ、王太子の側近として隣にいるだけなのに得体の知れない畏怖がやつにはあった。


一瞬だけどこぞの令嬢と婚約関係になったようだが、すぐに解消されたらしく、特に気に留めることはなかった。


あまりにも何もなかったので、直接本人と接触するしかないとベアトリクスは王宮の舞踏会に侵入することにした。


そこで、真紅のドレスを身に纏った令嬢と出会った。


頼んでもないのにしゃしゃり出てきて、勝手に騒ぎを大きくする女に苛ついていたが、セドリックと女の間に何かあると察した。


その後、彼女こそがアンドリューの双子の妹、アンナであり、セドリックと一時婚約関係にあった令嬢だと知った。


他の令嬢たちとは明らかにセドリックから向けられる態度が違う。


ただ死んだ友人の妹だから気にかけているだけなのか、それとも別の感情があるのか。


確かめるためにアンナの不在を知らせると、セドリックは王太子のことなどそっちのけで、血相を変えて彼女を探しに行った。


ベアトリクスはアンナがセドリックにとって唯一の隙だと確信した。


その後、アンナと接触を図るために、彼女へ手紙を送った。


世間知らずのアンナは何も疑うことなく、のこのことベアトリクスの前へと現れた。



「こんなに美味しいのは初めてだわ...」



どうやってこの女を利用してやろうかと考えていたベアトリクスだったが、アンナがなんとなく呟いたであろう言葉に思考が止まった。


それはベアトリクスがずっと飲み続けていた紅茶をアンナが一口飲んだ時の言葉だった。


たった、それだけだった。


たったそれだけの言葉なのに、ベアトリクスは息が詰まりそうになった。


アンナにバレないようにすぐに恋バナ好き令嬢を演じることにしたベアトリクスだったが、内心ずっと胸の鼓動が止まらなかった。


誰かと同じ紅茶を飲んで、こんなにも胸が騒いだのは初めてだった。


そこからはアンナを利用して、セドリックの執着をますます強固なものにすることにも成功した。


純粋で警戒心が異様に低い、お人好しのアンナは自分が利用されていることにまるで気付いていない。


セドリックの執着が最高潮になったところで、アンナをやつの目の前から奪ってやればいい。


アンナの死を目の当たりにしたら、さすがにあの男でも隙が出来るだろう。


しかし、アンナが死んだところを想像したベアトリクスは静かに胸が沈んでいくのを感じた。


これがいったい、どういう気持ちなのかベアトリクスにはわからなかった。


本来なら拉致したアンナをすぐに殺すべきだとわかっていた。


だが、ベアトリクスにはそれができなかった。


自分の正体を知られたら、アンナを生きて返すわけにはいかない。


これで最後になるかもしれない。


だから、どうしてもアンナと話したかった。


恨まれてもいいし、嫌われてもいい。殺してくれたっていい。


自分でもわからない感情に突き動かされるまま、ベアトリクスは全てをアンナにぶち撒けた。


予想通り、アンナは嫌悪を表し、首を絞め上げようとしたが、彼女がベアトリクスを殺すことはなかった。


その後、全ては終わった。


死んだはずのアンドリューが現れ、気付いた時には床に伏せられ、縄で縛られていた。


これで全部終わった。


やっと終われるんだと安堵した時、ベアトリクスの中に残っていたのは紅茶の香りと、アンナの笑顔だった。



・



「僕は、君のこと....嫌いだよ。....二度と僕の前に、現れないでくれ」



精一杯の強がりだった。


最後までお人好しなアンナ。


何故そんな彼女に自分がここまで心を揺さぶられるのかわからない。


でも、アンナに友達になりたかったと思ってもらえただけで、こんな人生でも価値がなかったわけじゃなかったんだと思えてしまう。


それでもう十分だった。


静かに別れを告げたアンナが部屋から出ていくが、ベアトリクスは振り向かない。


さよなら、アンナ。


願わくば、僕みたいな人間を君の人生の傷にはしないでほしい。


どうか、一生思い出さないで。


一人になった冷たい部屋の中で、ベアトリクスはとうに枯れたはずの涙を流すのであった。




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