不幸にも出会ってしまった男
寮の部屋の整理が一段落ついたので、セドリックは一息つくために一人、寄宿学校敷地内の中庭を歩いていた。
今日、王族や貴族の子息が多く通う伝統を重んじる由緒ある寄宿学校に入学したばかりだが、セドリックはすでに少し億劫になっていた。
原因は主に、自身が側近を務めるリスタータ王国の王太子、リチャードである。
北の大国との国境の領地を担うレッドフィールド侯爵家の子息として生を受けたが、セドリックは三男であり、家督継承する未来はなかった。
その代わり、母親が現国王の姉であることと、年齢が近かったということから、幼少期より王太子の側近として育てられてきた。
今までは王都で大きな催し物などがある時だけ、レッドフィールドの領地から出てきて、王太子の隣に立つだけで済んでいた。
しかし、リチャードが王都の寄宿学校に入学するということだったので、側近のセドリックも問答無用で入れられることになった。
別に寄宿学校が嫌だったわけではない。
セドリックは正直、自身の生涯の君主になり得るリチャードが苦手なのだ。
出会った当初から自信家で、自己愛が強く、たまに話が通じないリチャードはセドリックの理解の範疇を超えていた。
こんな人間が、将来、自国の国王に就任すると想像するだけで恐ろしいとまで思っている。
そんな不安を寄宿学校に入学する前日、ついうっかり父親のレッドフィールド侯爵に洩らしてしまうと、彼は困ったように眉尻を下げて笑っていた。
「セドリックは本当に真面目だね。もう少し、肩の力を抜いて物事を考えたほうがいいよ」
「しかし...」
「リチャード殿下と顔を合わせてから、まだ日が浅い。セドリックはまだ彼の、表面側しか見えていないのかもしれないよ」
「...そうでしょうか?」
「セドリックも明日から、学校に通って様々な考え方を持った人たちと接していく内に、少しずつ柔軟になっていくと思うよ。卒業する頃にはきっと、今とは違う考えになっているかもしれない。楽しみだね」
自分と同じ灰色の瞳を細め、柔らかく微笑んだレッドフィールド侯爵はセドリックの頭を撫でた。
そんなことあり得るのだろうか。
セドリックは今にも雨が降り出しそうな曇天を見上げる。
どうせ部屋に戻っても、隣室のリチャードに捕まって、彼の自己美談を延々と聞かされるだけなのでセドリックはもう少しだけ中庭の奥の方へと足を踏み入れることにした。
王都で一番大きな学校なだけあって、中庭も広い。
奥に進んでいくにつれ、雑木が増えていき、段々と景色が整備された庭から乱雑な雑木林になっていく。
「おーい、おーい、そこの君ー」
風も強くなり、そろそろ本格的に雨が降り出しそうだなとセドリックが立ち止まる。
「ちょっと、お願いごとがあるんだけど、聞いてもらってもいいかな」
今すぐ戻ったほうがいいと頭では理解しているが、体が動かない。
「おーい、聞こえてないのかな。おーい!」
そこまでリチャードに不信感を抱いている自分にも嫌気がさしてくる。
こんな自分が王太子の側近が務まるのだろうかと不安になる。
「そこの灰色頭の君!!!!ちょっと、いいかな!!」
すぐ近くで誰かの叫ぶ声が耳に届き、セドリックは我に返る。
こんな雑木林に人がいると思えないが、確かに自分の特徴である灰色の髪について明言していたので、誰かが近くにいるはずとセドリックが辺りを見渡すも誰もいない。
「こっち!!こっちだよ!!」
しかし、確実に声は聞こえてくるのでよく目を凝らしてみる。
すると、目の前の大木の枝に足首を挟まれて、逆さまのまま宙吊りになっている自分と同じぐらいの年齢の少年と目が合った。
「やぁ、こんにちは。僕の名前はアンドリュー・グランヴィル。早速で悪いんだが、助けてくれないかい?」
宙ぶらりんの少年、アンドリューは笑顔で助けを求めてきた。
いったいどういう状況なんだと一瞬思考が追いつかず、困惑しているセドリックにアンドリューは話しかけ続ける。
「いやー、本当に参ったよ!まさか入学早々、木の枝に挟まってしまうなんて思いもよらなかったよ!!このまま君が来てくれなかったら、危うく野垂れ死ぬとこだった」
まったく危機感を感じていないような口振りに不信感を募らせるセドリックだったが、身に纏っている衣服と発せられた言葉から、この学校の生徒で、自分と同じく今日入学してきた新入生だということはわかった。
だが、いったい何故このような状況になったのか想像がつかないセドリックは足元で喋り続けるアンドリューを凝視する。
「君も、僕と同じこの学校の新入生だろう?嬉しいな、同学年の子と出会えるなんて!入学式が退屈で早々に抜け出してしまったから、まだ知り合いが一人もいないんだ」
話を聞いてる限り、このアンドリューという少年は少なくともセドリックとは正反対で、いい加減な考えを持つ人間だとわかる。
そして、このような人間に対しても、セドリックは苦手意識を感じてしまう。
初対面で、すでに関わり合いを持ちたくないと早急に判断してしまったセドリックだったが、足元からアンドリューのくぐもった声が聞こえてきた。
「うぐっ...、やばっ。頭に血が昇ってきて、そろそろ限界かも...」
アンドリューの顔がみるみる内に青白くなっていくのを見て、セドリックは慌てて逆さ吊りになっている彼の体を下から引っ張る。
「いだっ、いだだだだだだだ。もう少し丁寧に助け出してくれないかな?」
「すまない、少し黙っていてくれないか。騒がしくて、集中できない」
「えっ!?なんだって!?」
耳元で喚き散らしてくる、非常に鬱陶しいアンドリューにセドリックは苛立ちながらも引っ張り出そうと努力する。
しかし、思ったよりも複雑に挟まれており、中々取ることが出来ない。
「いだい、いだっだだだだだだだ!!!千切れる!!さすがに、千切れるって!!!」
これ以上耳元で騒がれたら鼓膜が破れる恐れがあったため、少し乱暴だがセドリックはアンドリューの体を上下に揺らす。
その振動で足首に絡んでいた木の枝がポキっと折れ、支えがなくなったアンドリューの体が真っ逆さまに頭から地面へと落ちていった。
「ぐへぇ...、そこは受け止めてほしかった...」
頭から着地したアンドリューは、文句を呟きながら上体をゆっくり起こす。
衣服の乱れなどまったく気にせず、立ち上がると、笑顔でセドリックに向き合った。
「ありがとう!君のおかげで助かったよ!」
握手の要求なのか、手を差し伸べられるも、セドリックはすぐには応じなかった。
しかし、アンドリューは気にすることなく、セドリックの左手を強引に掴み、無理やり握手してくる。
「いやー、アンナみたいに木に登って降りられない猫を見かけてしまったから、どうしても放っておけなくてね!!あっ、アンナっていうのは僕の最愛の双子の妹でね、アンドリューが出来るなら自分だって出来るって意地張って、登ったのはいいけど、思ったより高かったのか怖くて泣き出してしまって...本当に可愛くて仕方ないよね!!それでそんなアンナを思い出したら、猫がかわいそうに見えてきて、助けようとしたんだけど、アンナと違ってその猫、僕が近付くと自分から降りてしまってね、そしたら足を踏み外しちゃって、枝に足が絡まっちゃったってわけ。いやー、本当に助かったよ!!」
「...君の、妹は猫なのか...?」
聞いてもいないのにわけのわからないことを好き勝手に喋り倒すアンドリューに圧倒され、困惑するセドリックは自分でも意味不明なことを口にしてしまう。
セドリックの発言にきょとんと目を丸くするアンドリューに、しまったと自分の失言を後悔するも、もう手遅れだった。
「やっっだなー、アンナが猫なわけないじゃん!僕の妹なんだからちゃんとした人間だよ!!アンナみたいな猫って別に猫を猫に例えたわけではなくて、行動が猫みたいなアンナを猫みたいって言っただけでアンナは猫じゃないよ!!でも、時々猫みたいに毛を逆立てるように怒ることもあるから、ある意味本当に猫かもしれないね!!まぁ、そこも可愛いんだけど」
続けざまに喋り倒され、セドリックは頭が痛くなってきた。
途中からもう妹が猫でも、人間でもどっちでもいいから早く終わってくれと願い始めていた。
「君って、おもしろい人だね。改めて自己紹介するよ。僕はアンドリュー・グランヴィル。東の辺境、グランヴィル子爵家の長男だ。そして、世界で一番可愛いアンナの双子の兄だよ。君は?」
「せ、セドリック・レッドフィールド...」
「レッドフィールド!?レッドフィールドってあの北のレッドフィールドかい!?うわぁー、君って実はものすごい人だったりしてね。やっぱり王都の学校に来て正解だったよ。初日から君みたいな人と仲良くなれるなんて、僕はなんて幸運なんだ」
無邪気な瞳のアンドリューに詰め寄られ、怯んでしまい、つい自分の名前を答えてしまった。
完全にアンドリューの話の流れに呑み込まれていると危惧したセドリックは握られている手を強引に振り払う。
「それは、何より。それではわたしは、失礼させていただく」
乱れた衣服を整えたセドリックは一刻も早くこの場から離れようと、アンドリューに背を向けるも、気にすることなく後ろから付いてくる。
「ねーねー、セドリックって兄弟とかいるの?お兄さん、お姉さん?それとも僕と同じ妹とか?可愛いよねー、アンナ。僕がここに来たら、毎日一緒にいられないって気付くと、寂しいくせに意地張ってアンドリューなんて早くどっか行っちゃえって目に涙いっぱいに溜めて行ってくるんだよ。で、僕が領地から出発するときなんて部屋から出てこないと思ったら、馬車に乗り込む最後の最後に行かないでって泣きながら縋ってくるんだよ。本当に、本当に可愛い!!そう思わないかい!?」
「わたしに、妹はいない。歳の離れた兄が二人いる」
「そうなんだね、じゃあ君は末っ子か...。じゃあアンナと一緒だ!!アンナもね、本当は妹か弟が欲しかったらしくて、でもそれを母様に言うと困らせてしまうから小さい頃は一人で隠れて人形たちを弟や妹に見立てて遊んでたんだよ。それがあまりもいじらしくて、下の子が欲しいなんて思わせないようにたくさん構ってあげたら、もうあっち行ってって言われちゃったんだよ、ひどくない?」
何を話しても最終的に妹の話をしてくるアンドリューに恐怖を覚え始めているセドリックは早足で巻こうとするも、引き離すことができない。
そんなセドリックの焦りをよそに、アンドリューは延々と話し続ける。
「学校来るのは楽しみだったんだけど、アンナと離ればなれになってしまうのは少し嫌だったな...。アンナも今頃僕がいないことが寂しくて、母様に泣きついてる頃だろうね。早くアンナに会いたいな...。セドリックはここに来るとき、不安とかなかったのかい?」
不安という言葉に、一瞬リチャードの顔が頭に過る。
しかし、これ以上この男との会話を長引かせるのは危険だと判断したセドリックはアンドリューを無視して、ただ歩くことだけに集中する。
「アンナもよく抱え込んでしまうから、少し心配だな...。...君は本当に何もないのかい?さっき、随分と思い詰めた顔をしていたようだけど」
セドリックの足が止まる。
それと同時に後ろのアンドリューも同じように止まる。
「あっ、でもセドリックが大丈夫ならそれでいいんだよ。僕の言う事など蚊に刺されたものとでも思って、受け流してくれ。それより、アンナが...」
「...お前には、関係ない」
「えっ」
こんないい加減な男の戯言など無視すればいいことなどわかっている。
それでも思い悩んでいることが顔に出てしまい、この男に気を遣われる自分が不甲斐なく、我慢できなかった。
拳を握りしめ、奥歯を噛み締める、アンドリューに振り返る。
「殿下は、わたしが仕えるべき方だ。それなのに、わたしはあの方を理解できない。苦手意識まで抱いている。側近でありながらだぞ...!」
そして、こんなことで感情が露わになってしまう自分の未熟さがたまらなく嫌だった。
突然大声で叫ばれたことに驚いたのか、アンドリューが瞳を瞬かせ、呆然としている。
我に返り、自分のしでかしたことが急に恥ずかしくなったセドリックの頬に熱が溜まっていく。
一刻も早く、この場から立ち去らなければとセドリックが踵を返そうとする。
「えっ、それの何がいけないんだい?」
打ち付けられるような衝撃が頭に走り、セドリックの動きが止まる。
アンドリューに振り向くと、特に気にしている様子もなく、出会い頭と同じような笑顔をセドリックに向けている。
「苦手なら苦手でもよくない?えっ、ていうかセドリックって王太子殿下の側近なの!?うひゃー、思っている以上にすごいじゃん、君!!」
「...な、んで」
頭が混乱しているのか、口から勝手に疑問が漏れ出る。
「ん?だって、君が殿下を苦手でも、側近なのは変わりないだろう?だったら、無理に好きになろうとするほうが疲れるじゃん。そんなことで思い悩むぐらいだったら、考えないほうが楽だよ、絶対に!!」
「し、しかし...」
「セドリック、君って本当にすっごい真面目だね!!!真面目すぎて、面白いぐらいだ!!というか、君と仲良くなったから王太子殿下ともお近付きになれるってことだろ!?うわぁー、楽しみだな!!」
話の流れがアンドリューによってまた変わろうとしている。
しかし、セドリックの中で先程までアンドリューに抱いていた嫌悪感が不思議と薄れており、そこまで不快感を感じることはなかった。
いったい何が起こったのだろうと考える間もなく、頭上からぽつりと水滴が落ちてくる。
「わっ、雨だ!!」
空を見上げ、アンドリューが呟いた瞬間、水差しをひっくり返したような勢いの土砂降りが振ってきた。
「うわっ!!これはしんどいかも!!早くどっかに避難しよう!!」
まったく役に立っていないが両手を頭上で組み、雨を避けるようにアンドリューが走り出す。
「何してるんだい!?セドリックも早く!!!」
反応が遅れてしまったセドリックは、アンドリューの声で我に返り、彼の後を追うように走り出した。
この時のセドリックはまだ知らない。
木に逆さ吊りになっていた少年、アンドリュー・グランヴィルとの出会いが、自分の人生を大きく変えていくことを。
・
「懐かしいな...。君と出会った時も、今日のような青い空がどこまでも広がる晴天だったよね」
「薄暗い曇天だったと、記憶しているが。それに、途中で雨にも降られている」
窓から差し込んでくる太陽の光に目を細めながら、我が物顔でソファに座るアンドリューが適当な思い出を語るので、セドリックは静かに訂正した。
今日は、アンナとセドリックの結婚式が行われる日。
つい先ほどから新郎であるセドリックの控室にアンナの双子の兄、アンドリューが訪ねてきていた。
「そうだったけ?いやー、そこらへんはよく覚えていないよ。さすがだね、セドリック」
本当に覚えていないのかはわからないが、アンドリューが惚けたように首を傾げる。
長年アンドリューと付き合ってきたセドリックは彼のいい加減な性格を理解しきっていたため、深く追求することはしなかった。
それに、自分だけがあの出会いを強く記憶しているということを勘付かれたら面倒なのでこのままアンドリューによって会話が流れていくのを待つことにした。
「あの時のことは、鮮明に覚えてるよ。アンナに似た猫を助け出そうとしたら、枝に足を取られ抜け出せずに困っていたところに、君が現れたんだ」
いつもならとっくに次の話題に移っているはずだが、今日は珍しく話を擦ってくる。
しかし、その時の気分によって言動が変わっていくアンドリューに慣れきってしまっていたため、セドリックは静かに耳を傾ける。
「あの時は、助けられたからちゃんと言えなかったんだけど。君って相当のお人好しだよね。僕だったら、あんなところで逆さまでぶら下がってる人間に助けを求められても、すぐ逃げるもん。怪しすぎるし!!!」
どの目線で言っているのかと、話を遮りそうになるも、あの時アンドリューを助けたことに後悔はしていないので、セドリックは黙って足を組んだ。
「...しかし、まさかアンナがセドリックと結婚してしまうなんて...、僕は今とても複雑な気分だ!!」
大袈裟に胸を押さえる動きをするアンドリューにセドリックの指が微かに動く。
「わたしが、相手だと不服だと?」
アンナのことになると、さすがに声を上げないわけにはいかず、灰色の瞳でアンドリューを睨む。
今更、異議を申されても、もう遅い。
セドリックはアンナを深く愛しており、誰に何と言われようと手放すつもりはない。
今日という日を心の底から待ち望み、ようやくアンナの隣で生きていける権利を得られるのだ。
双子の兄ごときに邪魔されたくない。
いざとなったら実力行使でねじ伏せる覚悟もセドリックにはあった。
「いや、それはないよ。君以上にアンナに相応しい相手もいないだろうし、もし相手が君じゃなかったら今頃僕はアンナを連れて国外逃亡を謀っていたところだよ」
この男なら本気でそんなデタラメな行動をしでかしそうだが、セドリックはそれよりも自分以外の男がアンナと結婚し得た可能性に心臓が凍てつく。
そんなこと絶対にありえない、想像するのも恐ろしい。
それほどまでにアンナはセドリックに強くて深い愛を植え付けている。
「そんな怖い顔するなよ。もしもの話だろ。しかも、今更僕が反対したところで君は僕をねじ伏せてでも止まるつもりはなさそうだし、アンナもそれを望んでいない」
セドリックがアンドリューを理解しているように、アンドリューも長年の付き合いでセドリックの考えを熟知していたようだ。
「それなら、何の文句がある」
「文句じゃないんだよ。なんか、こう、口に出して説明し難い何かが、体から抜け落ちていくというか...わからないかな?」
「抽象的すぎる、具体性が乏しい」
相変わらず感覚で言葉を発するので、セドリックは今でも時折アンドリューの言っていることが理解できない時がある。
「もぉぉ、セドリックたら本当に硬いね!!もっと柔軟になっておくれよ!!!」
出会った当初よりはだいぶ緩和されていると自負しているが、アンドリューにとってはまだ足りないらしい。
しかし、根本的な性格を変えるつもりはないので、アンドリューの要求を呑むつもりはセドリックにはなかった。
「まぁ、いいや。しかし、君と出会ってから、本当に退屈しない毎日だったよ。リチャードとも仲良くなれたし、とても楽しかった」
昔を懐かしむように瞳を細めるアンドリューを横目に、セドリックも思い出したくもない過去の日々が頭を過っていき、自然と眉間にしわが寄っていく。
アンドリューとリチャードという最悪な二人が出会ってしまったおかげで、寄宿学校でのセドリックの日々は波乱と苦悩の連続だった。
あっちこっちで問題行動を起こす二人を制裁するために学校中を駆けずり回り、奮闘せざるを得なかった。
そのおかげで当時抱えていた不安に対し思い悩む暇もなくなったが、それとは別の理由で頭が痛くなる毎日だった。
アンドリューにとっては退屈しない日々だったと思うが、セドリックにとっては休まることのない苦労の日々だった。
しかし、久しぶりに思い返してみたが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
「だから、君と出会えて本当によかったと、心の底から思うよ」
アンナと同じ栗色の瞳が、セドリックの瞳を見据える。
すでに飽きるぐらい見た憎たらしい笑みに、セドリックは小さく頷く。
「...そうか」
「えっ?」
短く返事をすると、アンドリューが納得していないかのような渋い表情を向けてくる。
「そこは、普通にわたしもだっていう流れじゃないの...?」
アンドリューの魂胆を察したセドリックは呆れたように息を吐いた。
「何故、わたしがお前の期待通りの言葉を口にしなければならない」
「だって、だってそのぐらい言ってもらわないと、お幸せになんて絶対に言いたくないもん!!セドリックばっかりずるいじゃん!!」
「調子に乗るな。第一、言われなくてもそのつもりだ」
誰よりもアンナを幸せにする。
それぐらいしか、自分を選んでくれた彼女に出来ることがない。
そのために、自分の全てを差し出すことにセドリックはなんの躊躇いもない。
「もういい!!セドリックのわからずや!!アンナに慰めてもらうもん!!」
すっかりへそを曲げてしまったアンドリューはソファから立ち上がり、部屋の扉へと向かう。
その背中を眺めながら、セドリックはあの日のことを思い出す。
あの日、アンドリューと出会えていなかったら今の自分はいなかったことは断言できる。
それほどまでにアンドリューという男はセドリックに多大なる影響を与えていた。
もっとも、それを本人に伝えるつもりは絶対にないセドリックなのであった。




