3.
『アンナ、見て。七色の架け橋が出ているよ』
少しあどけなさが残るアンドリューが遠くの空に見える虹を指差して、笑いかけてきた。
そうね、アンドリュー。とても綺麗ね。
いつもの笑顔なのに、何故か不安になり、アンドリューと繋いでいる右手に力を込める。
『あの橋の向こう側に何があると思うか知りたくない?』
同じ身長だったはずのアンドリューの視線が少しだけ高くなっている。
胸のざわつきがどんどん大きくなる。
握っている右手にますます力を込める。
わからないわ、アンドリュー。そろそろ日も暮れるし、もうお家に帰りましょう。
半歩先を進んでいたアンドリューが少し意地悪な笑顔で振り向いてきた。視線がだいぶ高い。
『それじゃあ、どっちが早く橋の向こう側に行けるか競争だ』
待って、アンドリュー。
『負けたほうは逆立ちで屋敷の外を一周だ』
待って。
離れていこうとする手を必死に掴む。けれど、抵抗も虚しく、振りほどかれてしまう。
待って、アンドリュー!!!待って!!!
こちらを見向きもせず、暗くなっていく空に向かって走り出す兄を必死に呼び止める。
行かないで!!!置いていかないで!!!
もう届くはずないと知っているのに、離された右手を必死に伸ばす。
わたしを、ひとりにしないで!!
・
「...アンドリュー、待って...」
伸ばした右手が咄嗟に何かを掴むのを感じた。
無意識に引っ張ってみると、抵抗されないけど、重量感を感じられる。
ぼやけた意識のまま、視線を手の先に向けると、見慣れない男がこちらを神妙な面持ちで見つめている。
アンドリュー...、じゃない...!?
瞼を何度か瞬き、視界がはっきりする。
アンドリューだと思って掴んでいたのは、どうやらセドリックの服の裾だったようで、慌てて手を離す。
服の裾を離した手が、無意識のうちに胸元へ滑る。
薄い布の下、冷たい金属の感触を確かめる。
寝ながら泣いてたのか、頬が濡れている。
もう手遅れかもしれないが、目元を擦り、何事もなかったようにする。
ふと視線を感じて顔を上げるが、セドリックは何事もなかったように窓の外に視線を向けている。
胸の奥のざわつきが、わずかに静まる。
「そろそろ屋敷に着く頃合いだ」
セドリックの言葉に合わせて窓の外を見て、思わず声を上げる。
「...わぁ」
外はもう真っ暗だったが、遠くから見える街の灯りで輝いて見える。
普段感じている夜の静けさとは違う、初めて見る夜の輝きに思わず見とれてしまっていた。
・
街の灯りから少し離れたところで、馬車が止まる。
「旦那様、屋敷に到着しました」
従者が馬車の扉を開け、セドリックが先に降りる。
後を追うように馬車から顔を出すと、セドリックが手を差し伸べてきた。
「...結構です」
その手を払い除け、自力で馬車から降りる。
払い除けた手は、すぐに引かれた。
けれど、足元だけは静かに見守られている気がした。
暗くて全貌は見えないが、それでも、かつて住んでいた屋敷よりはるかに巨大な建物が、静かに見下ろしている。
「おかえりなさいませ、セドリック様」
どこからともなく声がした。
次の瞬間、暗闇から執事服の男が音もなく現れる。
「長旅、お疲れ様です。ご指示していただいたこと、全て手配しております」
「そうか、無理を言った」
セドリックの背中越しに会話を聞いていると、執事服の男と目が合った。
わたしに気付いた男性が皺を深めるように目元を緩ませる。
「お初にお目にかかります、アンナ様。遠路遥々、ようこそお越しくださいました。わたくし、執事長のテイメンと申し上げます。今後とも、よろしくお願いいたします」
穏やかな笑顔を見せるテイメンに、わたしは小さく会釈を返した。
「外は冷えます。どうぞ、屋敷のなかにお入りください」
テイメンの合図とともに、屋敷の正面扉が開く。
扉の向こうは別世界のように明るく、わたしは思わず目を細める。
「「おかえりなさいませ、旦那様」」
玄関ホールは、息が詰まるほど広い。天井は高く、声が吸い込まれてしまいそうだ。
そして、両脇には使用人たちが整列して、主に向かって一斉に頭を下げている。
唖然として立ち止まっているわたしを横目に、セドリックは一度も振り返らず、当然のように屋敷の中に入っていく。
セドリックはほんの少しこちらを振り向き、短くひと言。
「ついて来い」
どうやら、わたしはとんでもないところに来てしまったらしい。
——逃げ場なんて、どこにもなさそうな場所に。




