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第8話 灰狼は、守るために生まれた

 薬を替えたからといって、夫の傷はすぐに治らなかった。

 ベルタが影の状態を見ながら調整し、エマができる範囲で濁りを取り除く。

 体へ長く溜まったものを、一度の祈りで消すことはできないという。


 二日後、私は稽古場で夫の影を見せてもらった。


 黒い刃が一本、空を切る。

 木の杭が、音もなく二つになった。


「……強いですね」

「これだけならな」

「小説では、もっと怖い力として出てきました」

「どう使った」

「建物を壊して、人を追い詰めていました」


 夫は自分の掌を見た。

 沈黙が、長くなりかける。


 私は続きを言った。


「でも、見たことだけを、あなたの本当の姿だとは思いません」


 彼は顔を上げた。

 小さく頷き、今度は影を足元へ落とした。


 黒い幕が、私の周囲に広がる。

 頭上まで覆い、丸い屋根になる。

 中は暗い。でも、息苦しくない。


「雨と、矢を避けられる」

「影で、家を?」

「短い間なら」

「スミも、こういう力ですか」

「あれは、俺が形にしようとしたものではない」


 灰色の毛玉が、幕の内側へ入ってきた。

 私の足に背中をつけ、稽古場の入口を見る。

 小さいくせに、見張っているらしい。


 騎士隊長のガイが、外から木の剣を投げた。

 幕に触れた剣が滑り、地面へ落ちる。


「昔は、隊の負傷者をここへ集めたんです」


 ガイの声がした。


「帰りの馬が来るまで、公爵様が守ってくださいました」

「公爵様は、話してくれませんでした」

「本人にとっては、仕事をしただけですから」


 夫が幕を解いた。

 少し、肩で息をしている。


「もう、休みましょう」

「まだできる」

「昨日、ベルタ先生に何と言われました?」

「……痛みがある日は、短く」

「今は?」

「ある」


 言えるようになった人を、私は誇らしく思った。

 彼自身は、叱られた子供のような顔をしていた。


 午後、町の孤児院へ備品を届けに行った。

 夫がずっと支援していた場所だった。

 私は支援の一覧を見て、初めて知った。


 門の前で、小さな男の子が固まる。


「狼の人」


 夫は足を止めた。

 その呼ばれ方に、慣れている顔だった。


「今日は、毛布を持ってきた」

「食べない?」

「……食べない」


 返事の間が、よくなかった。

 男の子は私の後ろへ隠れた。


 スミが、夫の影から出てくる。

 尻尾を伏せ、地面へ座る。

 それを見た男の子が、少しだけ顔を出した。


「小さい」

「この子は、スミと言うの」


 男の子がしゃがむ。

 スミも頭を下げた。

 触ろうとした指の間を、影の毛が通る。


「……ふわふわじゃない」

「煙に近いの」

「でも、かわいい」


 夫が、なぜか少し背筋を伸ばした。


 院長は、追加の毛布を喜んだ。

 夫を無理に子供の輪へ入れず、入口の椅子で茶を出してくれた。

 私たちが帰るとき、男の子が手を振る。


「狼の人、また来て」


 夫は二歩進んでから、止まった。

 振り返り、手を挙げる。


「……また来る」


 馬車の中で、彼は窓を見ていた。


「嬉しいですね」

「毛布が足りて、よかった」

「そうじゃなくて」


 彼の足元では、スミの尻尾がずっと動いていた。


 灰狼は、人を守ることができる。

 小説の最終章へ続く力の、別の使い方を、私はこの目で見た。


 その夜、北の町から報告が来た。

 水車のそばで、魔獣が出たという。


 紙を持つ私の手が止まった。

 覚えている出来事が、次へ進もうとしていた。

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