第6話 原作のヒロインを、敵にしません
残り二十五日。王都の慈善茶会に出た。
吊灯の調査は続いていたが、屋敷に籠もっても温室の事故は避けられない。
人が集まる場所で、知っている名前を確かめたかった。
夫は同行した。
入口で私の歩幅へ合わせ、会場へ入る前に尋ねる。
「途中で帰りたくなったら、言ってくれ」
「公爵様も、言ってください」
「俺も?」
「お仕事の会ではありませんから」
「……そうか」
私たちは窓辺の席へ着いた。
周囲の声が、一瞬だけ小さくなる。
灰狼公爵。
その妻。
原作の題名を知らなくても、皆、その二人を怖がっていた。
「夫人は、聖女の候補を好まないそうよ」
「公爵が聖魔法を嫌うからでしょう」
好むも嫌うも、まだ会ったことがない。
私は茶碗を置き、会場の奥を見た。
白い服を着た娘が、大司祭の隣に立っていた。
栗色の髪。困ったとき、左の指を握る癖。
エマ。
小説の主人公だった。
彼女は祈りの力を持ち、人を助け、公爵を倒す。
その場面を読んだ私は、彼女の味方だった。
でも今は、夫を殺させたくない。
嫌いになるのが、一番簡単なのかもしれない。
まだ彼女がしていないことを、理由にすれば。
エマが私の視線に気づき、頭を下げた。
慌てた拍子に、手元の茶碗が傾く。
私は反射で手を伸ばした。
受け止めたつもりが、私の手袋へ茶がかかった。
少し熱い。
「申し訳ありません!」
彼女が駆け寄った。
白い袖から、布を取り出す。
「まず冷やさないと。お水を」
「大丈夫です。少しだけ」
「少しでも、痛いものは痛いです」
どこかで聞いた言葉だった。
私は思わず、夫を見た。
彼はすでに水を頼んでいた。
大司祭セヴェリンが、遅れて近づいてきた。
「エマ。公爵夫人にご迷惑を」
「茶碗を落としかけたのは、私です」
私が言うと、彼の笑顔が止まった。
ほんの一瞬。
私はその一瞬を、覚えた。
夫が水の盆を運んでくる。
エマは彼の黒い手袋を見て、言葉を止めた。
「公爵様の傷は」
「昔の魔力傷だ」
「……おつらくは」
「ある」
夫は少し考え、続けた。
「少し、ではない日もある」
私は茶で濡れた指先を見た。
嬉しいと思う場面ではないのに、少し嬉しかった。
エマの目が、彼の顔へ向いた。
怖い男が、痛いと言った。
そのことに、彼女も驚いたのだろう。
「私、まだ上手にはできませんが、清めの力があります。検査のお手伝いくらいなら」
「エマ。勝手な約束をしてはいけない」
大司祭の声は、優しかった。
優しくても、彼女を止める言葉だった。
夫が私を見る。
私は頷いた。
「ベルタ先生と相談できる場を、作れませんか」
「そうしたい」
「私は、参加したいです」
エマが言った。
左の指を握り、もう一度、言った。
「人を助けるための力だと、教わりましたので」
セヴェリンは、微笑んだ。
断る理由を探し、見つからなかった顔だった。
会場を出ると、夫が私の手を見た。
「赤みは」
「消えました」
「次は、俺を呼んでくれ」
「茶碗が落ちる速度は、変えられません」
「……それもそうか」
彼は本当に困った顔をした。
小説の悪役の困り方ではなかった。
私はエマがくれた布を、鞄へしまった。
敵にするために会いに行ったのではない。
物語の主人公へ、初めて、自分の言葉で挨拶できた。




