第3話 冷酷公爵への、三つのお願い
夫と暮らすために、私は三つのお願いをした。
「薬と診察のことは、隠さないでください」
「分かった」
「危険な仕事へ行くときは、行き先を教えてください」
「警備上の秘密はある」
「それは、秘密だと言ってください。黙っていなくならないで」
夫が、一度だけ視線を落とした。
「分かった」
「最後に、私のことを、私抜きで決めないでください」
図書室の机に、空の皿が並んでいた。
夕食前の食事を二人で終え、少しお腹が苦しい。
冷酷公爵に交渉する場としては、緊張感が足りない。
でも、こんな場でしか話せないこともあった。
「君のこと、とは」
「私を安全な場所へ送るとか、危ないから理由も説明せず部屋へ閉じ込めるとか」
夫は頷きかけて、止まった。
「身に覚えがある顔です」
「昨夜、親類の別邸へ移ってもらうことを考えた」
「ありがとうございます。でも、考えたことを先に言ってください」
「……そうする」
私は息を吐いた。
小説の公爵は、誰にも相談せずに動いて、恐れられ、最後に一人になった。
だから今、何かを聞かなければいけない。
彼の未来を当てるより、彼の返事を聞くほうが大事な気がした。
「代わりに、俺からも頼みたい」
夫が、空の皿を脇へ寄せる。
「吊灯へ飛び込む前に、俺を呼んでくれ」
「給仕がいましたので」
「分かっている。だが、君に手が届かなかったらと思った」
黒い手袋の指が、机の上で動く。
「俺は、君の安全を守る約束で結婚した。君が自分を使い捨てるのは、契約に入っていない」
使い捨てるつもりは、なかった。
ただ、早く動けば間に合うと思った。
前世でも、今世でも、相談より先に自分で何とかしようとする癖がある。
「……呼びます」
「ありがとう」
その礼は、私の想像より重かった。
翌日、夫は外の医師を呼んだ。
ベルタという、赤い髪を短く切った女性だった。
私が席を外そうとすると、夫が椅子を引いた。
「薬を隠さない約束だったな」
「はい」
「では、聞いていてくれ」
ベルタは手袋を外した。
右手には、黒い細い筋があった。
古い傷痕とは違う。皮膚の下で、わずかに動いている。
夫は表情を変えなかった。
でも、左手が膝の上で握られた。
「痛いんですか」
「少し」
「公爵様は、全部少しとおっしゃるんですよ」
ベルタが、容赦なく言う。
薬を検査するため、瓶の一つを預かった。
成分は教会の秘方だからといって、調べずに済ませるつもりはないらしい。
「分かるまで、追加はしません。いつもの処方を急に止めることも、今ここでは決めません。体の状態を見ながらです」
「承知した」
夫は真面目に頷いた。
専門のことを、私の思いつきだけで変えなくてよかった。
診察が終わると、彼は手袋を嵌めた。
私が見つめていたことに気づき、手を引っ込める。
「気味が悪いか」
「痛そうだと、思いました」
「それだけか」
「触らないほうが、いいんですか」
「今は、触らないでくれ」
私は頷いた。
勝手に手を握って治るなら、彼はこんなに長く苦しまない。
廊下へ出ると、影が足元で動いた。
小さな毛玉が、私の靴へぶつかる。
狼。
仔犬より小さい、灰色の狼だった。
耳も、足も、尻尾もある。
なのに輪郭が、時々、煙のように揺れる。
「……公爵様」
「見なかったことにしてくれ」
「もう、見ました」
「そうか」
狼は夫の影から出ていた。
私の靴を嗅ぎ、満足したのか、尻尾を振る。
「影魔法の一部だ。普段は、形を保たない」
「名前は?」
「ない」
「スミにしましょう。煤みたいなので」
「……君がいいなら」
スミの尻尾が、勢いよく動いた。
夫の顔は、無表情のままだった。
私は一歩、離れた。
尻尾が下がる。
戻る。
上がる。
私は夫を見た。
夫は狼を見た。
「公爵様」
「言わないでくれ」
私は、笑うのを我慢できなかった。
破滅へ続く影の力が、私の靴の上で、嬉しそうに跳ねていた。




