第2話 悪役の夫は、猫に負ける
翌朝、私は机に紙を三枚並べた。
一枚目に、覚えている出来事。
二枚目に、この世界で確かめたこと。
三枚目に、まだ分からないこと。
混ぜたら危ない。
前世の私は、小説を読んだだけだ。作者でも、医者でも、魔術師でもない。
銀の灯の夜。
北の水車。
温室の事故。
聖鐘祭。
この順番は、覚えている。
けれど詳しい日付を思い出せるのは、妻の死と、公爵の最期だけだった。
昨日の話し合いを起点に、温室の事故は二十日後。
聖鐘祭は三十日後。
離縁の日と、同じ日だ。
「奥様、徹夜は美容に悪いですよ」
侍女のララが、茶を置いた。
六つ上の彼女は、私に遠慮をしすぎない、屋敷で数少ない人だった。
「まだ寝ていません」
「知っています。朝ですので」
彼女は紙の見出しを見た。
「公爵様を観察するんですか」
「少し」
「でしたら、朝食へどうぞ。ご本人がいます」
十一か月、夫婦の食事は数えるほどしか一緒にしていない。
夫は早朝から騎士の稽古へ行き、私は自室で食べる。
お互いに邪魔をしない。その暮らしを、私は安全だと思っていた。
食堂に入ると、夫は窓辺で固まっていた。
足元に、猫。
屋敷に住み着いた白い猫が、夫の長い上着の裾へ乗っていた。
夫は二十七歳。王国屈指の剣士。
猫を退かせる方法が、分からないらしい。
「持ち上げればいいのでは」
「起こす」
「猫なので、また寝ます」
「……そうか」
夫は屈み、左手でそっと猫を抱いた。
猫は目を開け、夫の指を舐め、もう一度寝た。
私は黙って椅子に座った。
小説には、載っていない光景だった。
「右手は、痛むんですか」
夫の肩が、わずかに動いた。
「昔の魔力傷だ。動かしにくい日がある」
「お医者様には?」
「診てもらっている」
「昨日、吊灯を切ったときは」
「左の影で足りた」
まるで、左の匙で食べたと言うような調子だった。
食卓へ戻った夫の袖から、薬の小瓶が見えた。
白い硝子。銀の蓋。教会の紋章。
それも、見覚えがある。
原作で聖女が、公爵の部屋へ入ったとき。
割れた白い小瓶が、床に散らばっていた。
「その薬は、何ですか」
「影の魔力を鎮める。大司祭の処方だ」
「効いています?」
「前より量が増えた」
猫が足元へ降りた。
夫は瓶を脇へ置き、朝食を取った。
たくさん飲んでいるから、悪い薬とは限らない。
傷が悪くなっているから、量が増えたのかもしれない。
私は二枚目の紙に書くべきことを、頭の中で分けた。
「別のお医者様にも、診てもらいませんか」
「理由を聞いていいか」
「私にも、分からないことが多いので」
夫は、昨日と同じ目で私を見た。
「君は急に、俺を気にするようになったな」
「気にするのは、いけませんか」
「……いけなくはない」
最後の一言だけ、声が小さくなった。
食事が終わると、夫は稽古場へ行った。
私は図書室で、教会の薬と影魔法の本を探した。
専門の文字が並び、十分も読めば頭が痛くなる。
その途中で、デインが来た。
「奥様。昨夜の鎖には、道具で削った痕がありました」
「事故では、ないんですね」
「はい。出入りした者を調べています」
最初から、夫は狙われていた。
小説では、公爵の魔力が暴れたせいで吊灯が落ちたように語られていたのに。
私は紙の二枚目に、書き足した。
鎖は人の手で切られていた。
公爵は、誰も怪我をさせずに守った。
悪役だったはずの夫の姿が、少しずつ変わる。
夕方、図書室の戸口に黒い影が差した。
夫が、何かを抱えている。
「君は、何を食べる」
「……人と同じものを」
「いや。今朝、半分残したから」
腕の中には、皿を載せた盆があった。
パンと、卵と、温かいスープ。
「夕食前ですが」
「……そうだった」
夫は盆を見た。
私も見た。
「半分ずつ、食べませんか」
「君がいいなら」
私が椅子を引くと、彼は座った。
聖女を殺そうとする最後の敵。
その人が、私の残した朝食を気にしている。
いったい、小説は何を見ていたのだろう。




