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第1話 離縁する前に、夫が死にます

「契約の満了まで、あと三十日だ」


 夫がそう告げた瞬間、私の頭の中に、一冊の本が落ちてきた。


 実際に落ちたわけではない。けれど革張りの椅子に座っていた私は、膝に置いた手を動かせなくなった。

 白い表紙。銀色の王冠。最終巻を閉じたとき、納得できずに眠れなかった夜。


 『聖女と白銀の王冠』。


 前世の私が、日本で読んでいた恋愛小説だ。

 会社から帰って、コンビニで買った夕飯を食べながら、少しずつ読んだ。二十七歳で事故に遭う直前まで、外伝の発売を待っていた。


 今の私は、二十二歳のリゼット・グレイス。

 そして目の前にいる夫は、その小説の最後の敵だった。


 灰狼公爵アーヴィン・グレイス。

 聖女の祈りを踏みにじり、王都を闇で覆った男。

 最終章で胸を貫かれ、誰にも惜しまれずに死ぬ。


 黒い手袋をした右手が、机の上の紙を押さえていた。

 その手が最後に、聖女の喉へ伸びる場面を、私は覚えている。


「リゼット。聞いているか」

「……はい」


 声が、変なところで裏返った。


 私はこの世界で、生まれ、育ち、十一か月前に彼と結婚した。

 その記憶もある。夫婦になりたい二人ではなかった。

 縁談を退けたい公爵と、叔父の後見から離れたい私。一年間、お互いの名前を借りる。そのあと、合意のうえで離縁する。


 夫は約束を守っている。

 私の部屋へ勝手に入ったことも、妻として振る舞うよう迫ったこともない。


 怖い顔と、少ない言葉以外に、困ったことはなかった。


 小説の中では、彼の妻は悪女だった。

 そして公爵が闇に堕ちる前に、死んでいる。


 つまり、夫が死ぬより先に、私が死ぬ。


「独立後の住居は、候補を三つ用意した。君が選んでくれ」


 夫は、ごく普通に未来の話をしていた。

 その未来に自分がいないことを、知らない顔で。


「生活費の支払いは、離縁後も契約通り継続する。叔父殿に渡さず、君へ直接」

「……ありがとうございます」

「今夜の夜会は、体調が悪いなら欠席していい」


 今夜。

 夜会。


 忘れていた文章が、浮かぶ。


 銀の灯の夜、灰狼公爵は右手を傷めた。


「夜会の広間に、銀の吊灯はありますか」

「あるが」

「中央の、一番大きいものですか」

「君も先月見ただろう」

「今すぐ、下ろしてください」


 夫の目が、細くなった。

 怒ったのではない。理由を探す目だった。


「何があった」

「……落ちるかもしれません」

「根拠は?」

「うまく、説明できません」


 前世の小説に書いてあった。

 そう言って信じてもらえるほど、私たちは親しくない。

 それに本の中でも、吊灯が落ちた理由は詳しく書かれていなかった。


 夫は立ち上がった。


「では、見るだけ見よう」


 廊下へ出たところで、執事のデインが頭を下げた。

 夫が点検を頼むと、彼は脚立と職人を呼びに行った。


「怒らないんですか」

「見て分かることなら、見ればいい」


 その返事は、小説の公爵と違った。

 私は少しだけ、息をしやすくなった。


 広間では、使用人たちが椅子を並べていた。

 中央の吊灯に、百本近い蝋燭がついている。その下を、銀の皿を抱えた若い給仕が通った。


 金具が鳴った。


 職人が上を向く。

 私は給仕へ走った。


「そこから、離れて!」


 吊灯が、傾く。

 給仕の腕を掴んだ。重い皿が落ち、床で跳ねた。

 夫が私の肩を引き、次の瞬間、真っ黒な刃が頭上を走った。


 吊灯が二つに割れた。

 大きな欠片が、誰もいない床へ落ちる。


 音が止むと、私は夫の腕の中にいた。


 彼の左腕だった。

 右手は動いていない。


「怪我は」

「ありません」

「給仕も?」

「……はい」


 夫は息を吐いた。

 私を離すと、割れた金具を見に行く。


 鎖の一部が、削られていた。


「デイン。今夜の夜会は中止だ」

「承知しました」


 夫が私へ振り返った。


「助かった。ありがとう」


 それから、自分の袖を見た。

 私を掴んだところに、皺ができている。


「怖がらせたなら、すまない」


 灰狼公爵は、人を怖がらせたことを謝った。


 私は壊れた吊灯を見た。

 最初の出来事は、変えられた。


 でも、三十日後に夫が死ぬ話は、まだ終わっていない。


「公爵様」

「何だ」

「離縁の家は、あとで選びます」


 彼は頷いた。

 私はその黒い手袋を、もう一度見た。


 先に、あなたを生き延びさせなければ。

 離縁どころではなかった。

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