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第20話 灰狼公爵は、世界より先に妻を守る

 旧大聖堂へ入ると、鐘が鳴った。

 まだ朝だった。

 聖鐘祭の祈りが始まる夕刻を、セヴェリンは待たなかった。


 白い柱の上で、銀の輪が光る。

 足元の影が、逆向きに伸びた。


 アーヴィンの右手から、血のように黒い筋が広がる。

 私は、その腕へ手を伸ばしかけた。

 触れれば治るわけではない。


「アーヴィン。聞こえますか」

「……聞こえる」


 彼は自分で答えた。

 だから私は、答えがあることを、エマへ知らせた。


 説教壇にセヴェリンがいた。

 護衛と、灰色の衣の神官たち。

 私たちを見て、彼は腕を広げる。


「ようやく、本性を見せる場所へ来たな」


 アーヴィンの影が、壁を覆った。

 濁りの刺激で、形が崩れようとしている。

 セヴェリンは、それを笑って見た。


「十年、お前の罪を抑えてきた。だが、その妻が薬を壊し、今度は教会へ剣を向けさせた」

「薬は、調べました」


 私は言った。

 声が、広間へ返る。


「抑えるためのものと、濁らせるものが入っていました。隠された道具も、見つかっています」

「素人の検査を、神の裁きより重く見るか」

「神を名乗る人の言葉より、人の体に起きたことを見ます」


 王宮の兵士が、左右の通路へ進む。

 ガイの隊が鐘楼の階段へ入った。

 セヴェリンの護衛が、その前へ出る。


 刃が鳴る。

 床に影が溢れる。


 アーヴィンが片膝をついた。


「清めの準備を」


 ベルタが言う。

 エマは光を当てるが、柱の上から降る刺激のほうが強い。


「鐘を止めないと、追いつきません!」


 その声に、セヴェリンの顔が変わった。

 聖女が灰狼を討つのではなく、治そうとしている。

 用意していた筋が、また外れたのだ。


「エマ。誰に力を与えられたと思っている」

「私の力は、あなたの持ち物ではありません」


 彼女の返事は、揺れなかった。


 銀の輪が、一層強く光る。

 広間の端に残っていた参拝者が悲鳴を上げた。

 出入口へ走る人が、倒れる。


 アーヴィンが顔を上げた。

 影が、そちらへ伸びる。


 私は息を止めた。

 原作なら、人を追い詰めたはずの影。


 黒い幕が、人々の上へ屋根を作った。

 落ちかけた石を受け、出口を塞がず、支える。


「……先に、出ろ」


 夫の声がした。

 痛みで、かすれていた。

 それでも、守るための言葉だった。


 セヴェリンが叫ぶ。


「見ろ、その姿を! 人の力ではない!」


 影の中心から、大きな灰狼が立ち上がった。

 耳が高い柱へ届く。

 牙が白く光る。


 私は一歩、下がった。

 怖かった。

 好きだから、怖くないわけではない。


 狼の目が、私へ向く。


 その足元に、小さな灰色があった。

 スミだ。

 同じ影から生まれた狼が、私の靴を守るように座っている。


 大きな狼も、出口へ体を向けた。

 牙を人へ向けず、落ちる石へ向ける。


 ベルタが、私へ叫んだ。


「今は触れないで! 影が崩れています!」


 私は頷き、声だけで呼んだ。


「アーヴィン。私は、ここにいます」


 狼の耳が動く。

 顔の奥で、目が揺れる。


「私を守るために、死なないでください。生きたあなたと、帰りたいんです」


 黒い幕が、もう一枚伸びた。

 今度は私たちの頭上へ。


 影は、荒れている。

 それでも、全部を失ってはいない。


 鐘楼から、ガイの声がした。


「仕掛けが二つある! 図面の継ぎ目へ手が届かない!」


 私は白い柱を見た。

 その上に、銀の飾り。

 大きな鐘に見えないよう、輪の形をしていた。


 原作の、白い光。

 あれは聖女の光だけではなかった。


 私は図面を開いた。


「ララ、エマのそばにいて。私は、鐘楼の下へ」


 退路はある。

 護衛もついている。

 ただ飛び込むのではない。


 最初の夜、吊灯の鎖を見た。

 今度は、光を降らせるものの、繋がる先を見る。


 狼の影が、私の進む通路へ屋根を伸ばした。

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