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第18話 好きです。だから、言っておきます

 残り四日。私は小説を思い出そうとした。

 聖鐘祭の最後の場面。

 聖女が立っていた位置。

 灰狼公爵が、倒れた場所。


 覚えている言葉は多い。

 でも、場所は曖昧だった。

 物語を読んでいた私は、二人が何を言うかばかり気にして、鐘楼の形までは見ていない。


 焦る。

 焦るほど、思い出せない。


 紙に書いた線を、何度も引き直した。

 アーヴィンが図書室へ入ってくるまで、椅子に座っていることも忘れていた。


「休もう」

「あと少し、思い出せそうなんです」

「君は、同じ場所を三度書き直している」


 私は紙を見た。

 彼の言う通りだった。


「私が、正しく覚えていれば」

「リゼット」


 彼は私の前へ椅子を置いた。


「覚えていなかったら、君の責任なのか」


 私は口を開き、閉じた。


「小説を読んだ一人の人間に、全員の未来を正しく記憶する義務はない」

「でも、知っていたのは」

「君が知らせたから、俺たちは動けた。知らせたあとまで、一人で背負わなくていい」


 私は顔を伏せた。

 見落とすたびに、誰かの死を自分が選ぶような気がしていた。

 夫の最期を知っている私が、ちゃんとできなければ、と。


 彼は紙を奪わなかった。

 私が筆を置くまで、待った。


「……今、怖いです」

「俺もだ」


 顔を上げる。


「俺は、君がいなくなるのが怖い。痛い手より、魔力を失うより」

「はい」

「だが、その怖さの責任を君へ渡したくはない。俺が怖いから、君が俺の望む場所にいなければならない、とは言いたくない」


 言葉が、いつもより多かった。

 彼も何度も、考えていたのだろう。


「アーヴィン」

「何だ」

「私は、あなたが好きです」


 先に言う予定はなかった。

 でも、帰ってからにしたら、今日の私の言葉ではなくなると思った。


「冷たい人だと思っていました。小説の怖い人だとも思いました。でも、あなたの手が温かいことを、知ってしまいました」

「……ああ」

「それだけじゃありません。私が怖いとき、聞いてくれた。話すとき、待ってくれた。間違えたら、言い直してくれた」


 私は彼の目を見た。


「私は、そういうあなたが、好きです」


 アーヴィンの左手が、膝の上で握られた。

 スミが椅子の足へ、しがみつく。

 彼は長く息を吐いてから、答えた。


「俺も、君が好きだ」


 まだ、とか、今は、とか。

 何もつかない、まっすぐな言葉だった。


「妻だからではない。俺を助けたからだけでもない。君が笑うと、次も笑ってほしいと思う。君が帰ってくる音を、聞きたくなる」


 私は笑った。

 少し泣きながらだった。


「名前を、呼んでもらえますか」

「リゼット」

「もう一度」

「回数は、決まっていないんだろう」


 夫の口元が、緩んだ。

 私は彼へ手を伸ばした。


 彼が、握る。


「口づけて、いいか」

「はい」


 触れる前に、少し躊躇う。

 その距離も、愛しいと思った。


 短い口づけのあと、私は額を彼の肩へ寄せた。

 今、二人とも生きている。

 好きだと言える。

 それを、未来の報酬まで取っておく必要はなかった。


 図書室の扉が叩かれた。

 ガイの声だった。


「公爵様。聖具の移送先が分かりました。王都の、旧大聖堂です」


 アーヴィンが、私を見る。

 私も頷いた。


 私は筆を置いたまま、紙を揃えた。

 思い出すだけでは足りない。


 今の私たちで、最後の場面へ行くのだ。

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