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第11話 夜のお茶に、名前をひとつ

 残り十八日の夜、私は夫の部屋を叩いた。

 返事があってから、扉を開ける。


 右手が痛み、眠れない夜だった。

 ベルタは診察を終え、休むよう伝えていた。

 休めと言われて、すぐに眠れるものではない。


「お茶を、一杯だけ」

「君も、眠れないのか」

「考えごとをしていました」


 私は盆を机へ置いた。

 薬に使う草ではなく、いつもの茶葉だった。

 体を治すためではない。今夜、起きている二人のための茶だ。


 夫は椅子へ座る。

 私は正面ではなく、机の隣の椅子を引いた。


「原作の俺は、君をどう扱った」

「詳しくは、書かれていません」

「そうか」

「妻の死のあと、影が暴れたと。主人公は、妻を大切にしなかった人が、その死を口実に暴れたと思っていました」


 言ってから、口を閉じた。

 ひどい説明だった。

 でも、都合のいいところだけ伏せるのも違うと思った。


 夫は茶碗を見つめた。


「大切にしなかった。今の俺も、そう見えただろうな」

「最初は、少し」

「約束を守れば、君は困らないと思っていた」

「困らないことと、寂しくないことは違いました」


 前世を思い出す前の私にも、寂しい夜はあった。

 叔父の家から離れられた。

 お金の心配を、しなくてよくなった。

 それなのに、誰に今日の話をすればいいか、分からなかった。


「公爵様の暮らしを、邪魔しないようにしていました」

「俺は、君の暮らしを邪魔しないようにしていた」


 二人で、顔を見た。

 ひどく真面目に、互いを避けていたのだ。


 私は笑った。

 夫も、口元を緩めた。


「名前で、呼ばないか」


 茶碗を置いて、彼が言った。


「公爵様では、屋敷の中でも仕事になる」

「……アーヴィン様」

「様も、できれば」

「急には、難しいです」

「では、待つ」


 私は膝の上で、指を握った。

 呼ぶだけのことなのに、吊灯へ走ったときより緊張する。


「アーヴィン」


 彼が顔を上げる。

 何かを確かめるように、私を見る。


「もう一度、言ってもらっていいか」

「回数が決まっているわけではありません」

「そうか。よかった」


 スミが椅子の下で、ひっくり返った。

 影の狼の尻尾が、床を叩いている。

 私はそれを指さし、夫を見た。


「隠すのが、苦手ですね」

「……俺も、最近知った」


 もう隠さないことが、増えた。

 痛いこと。

 嬉しいこと。

 寂しかったこと。


 私は茶碗の縁へ指を添えた。


「アーヴィン。私が未来を知っていたから、優しくしてくれるんですか」


 訊いた瞬間、失礼だったと思った。

 今の自分を信じてくれた人に、今の優しさを疑うようなことを言った。


 でも、彼は怒らなかった。


「君は、未来を全部知っているわけではないだろう」

「はい」

「茶碗が傾くのも、俺が猫を退かせないのも、知らなかった」

「……はい」

「そのときも、君は手を貸した」


 彼の左手が、机へ置かれる。

 私の指へ届くところで、止まる。


「俺は、君がそういう人だから、隣にいてほしいと思っている」


 私は、彼の手に触れた。

 温かい。

 そこから先の言葉は、まだ言えなかった。


「隣にいます」

「ありがとう」


 今夜の約束だった。

 契約が終わる日より先の約束にする勇気は、まだない。


 でも、茶碗が空になっても、私は席を立たなかった。

 未来を避けるために始まった夜が、終わってほしくない夜になっていた。

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