第10話 信じた薬と、信じたい人
救出の翌日、王妃から招待が来た。
表向きは、公爵夫人との昼の茶会。
実際には、ベルタの検査と北の水車の報告を聞く場だった。
マリーナ王妃は、私の父が生きていた頃を知っていた。
夫とも、戦場帰りの報告を通じて面識があるという。
「まず、よく知らせてくれました」
王妃は薬の瓶を見た。
聖職者の印があっても、そのまま正しいとは考えなかった。
検査を、王宮の別の医師にも依頼する。
薬の納入記録と、水車で使われた道具の出所を調べる。
北の事件を知った人たちの話も、別々に聞く。
「公爵。調査が始まるまで、無理をしないでください」
「承知しています」
「承知と実行は、別です」
夫が、口を閉じた。
ベルタに続いて、怖い人が増えたらしい。
帰りの馬車で、彼は窓へ目を向けたままだった。
私は待った。
尋ねれば話してくれるとは限らない。
でも、話し始めたときには聞ける場所にいたかった。
「十年前、俺は初めて、影を使って人を殺した」
声が、低かった。
「戦場だった。味方を守るために切った。帰るまで、それでよかったと思っていた」
「……はい」
「夜になると、右手が震えた。初めて傷が出たのも、その頃だ」
薬の瓶へ、左の指が触れる。
「セヴェリンは、俺がまだ人でいる証だと言った。痛むのは、罪を忘れていないからだと」
私は夫の顔を見た。
十七歳。
今の姿より、ずっと若い。
誰かを守り、誰かを殺し、眠れなかった人。
「薬をもらった。楽になった。だから、信じた」
それだけで十分だったのだろう。
彼が恩を感じる理由として。
裏切られたと、すぐには思えない理由として。
私は瓶を責める言葉を、飲み込んだ。
信じた自分が愚かだった、と彼に思わせたくなかった。
「助けが必要なときに、助けてくれた人を信じたんですね」
「ああ」
「そのときのあなたが、悪いとは思いません」
夫は窓から、私へ視線を移した。
「今も、あの人を責めることをためらう。そんな俺を、君は甘いと思うか」
「調べることを止めなければ、思いません。悲しくなるのは、別のことです」
馬車が石畳を越えた。
揺れたとき、彼の左手が私の肩の前へ出る。
ぶつからないように支え、すぐ戻した。
何かに苦しんでいるときでも、その動きを忘れない人だった。
屋敷へ戻ると、夫は教会の薬を、全部ベルタへ渡した。
何も言わずに、自分で箱を持ってきた。
「記録も、俺の体も、調べてくれ」
ベルタが頷く。
私は箱の重さを、両手で受け取った。
その夜、デインが、古い小さな銀の鐘を見せてくれた。
夫がセヴェリンから贈られ、長く執務室に置いていたものだ。
水車で使われた道具と、形が似ていた。
「鳴らすと影が落ち着くと、仰せでした」
「今は、鳴らさないでください」
ベルタが調べると、鐘の内側に、薬の混入物と同じ魔力の反応が残っていた。
濁った影へ共鳴する道具。
落ち着かせるためにも、逆に揺さぶるためにも使えるらしい。
夫は、自分の影を見た。
スミが、その靴へ寄り添った。
「……置いてあったものまで、君に見てもらわなければ分からなかった」
「私だって、知らなかったものばかりです」
私は小さな狼の背へ手を伸ばした。
「二人で気づいたら、一人のときより多く分かります」
夫は長く黙り、それから頷いた。
今まで彼を支えたものが、崩れかけている。
その場所に、私の思い込みを押し込めたくはなかった。




