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遠くへ置いてきたもの ③


吟遊詩人は、しばらく川面を見つめていた。


やがて琵琶へ静かに手を添える。


「――さて、このお話はここまでです」


澄んだ弦の音が、夕暮れへ小さく落ちた。


「夢を鎮める、というのは、不思議なものですね」


吟遊詩人は穏やかに微笑む。


「けれど……少しでも軽くなれるのなら」


「それもまた、悪いことではないのでしょう」


澄んだ音が、風のない川辺へ落ちた。


「……不思議なお話ね」


エナが小さく呟く。


夕暮れは、もう群青へ溶け始めていた。


吟遊詩人は琵琶を抱えたまま、穏やかに微笑む。


「そういう話ばかりで、旅をしておりますので」


どこか冗談めいているのに、不思議と嘘には聞こえなかった。


エナは少しだけ肩の力を抜く。


「そうだ、お代…」


「お代は結構です、また今度お店に伺います」


吟遊詩人は静かに目を細める。


「ええ。いつでもお待ちしてます」


川面が、薄く夜の色を映し始めている。


それ以上、二人は多くを話さなかった。


やがて吟遊詩人は小さく一礼し、静かな足取りで街の灯りの向こうへ消えていく。


エナはしばらく、その背を見送っていた。



---


家に戻ったエナは吟遊詩人の話を思い出していた。


""誰かと、ずっと一緒にいられると思っていたこと""


その言葉だけが、妙に胸へ残っていた。


通りの向こうで、幼馴染が笑っていた。


隣には妻がいる。


荷物を受け取る仕草も。


困ったように笑う顔も。


昔から変わらない。


胸の奥が、静かに痛む。


幼い頃から、ずっと隣にいた。


夕暮れの帰り道。


祭りの日。


雨宿りした軒先。


大人になっても、こんな日々が続くのだと。


エナは勝手に、そう思っていた。


彼も、少しくらいは同じ気持ちだと思っていた。


けれど。


彼は商家の跡取りだった。


年を重ねるにつれ、周囲は少しずつ二人の間へ線を引き始めた。


会う回数も減った。


以前のようには、笑えなくなった。


そしてある日。


彼の結婚が決まった。


相手は、釣り合いの取れる家の娘だった。


誰も悪くなかった。


彼も、最後まで優しかった。


だからこそ、エナは苦しかった。


もし冷たく捨てられていたなら。


嫌いになれたなら。


もっと簡単だったのかもしれない。


彼は、最後まで何も言わなかった。


引き止めることも。


約束することも。


ただ、言葉を飲み込むように目を伏せていた。


その横顔が、今でも忘れられない。



---


エナは店を休んだ。


理由はうまく言葉にできなかった。


ただ、あの話が胸の奥へ残り続けていたのだ。


風のない道を歩く。


空は白く曇り、遠くの景色はぼやけて見えた。


道中、何度も考えた。


本当にこんなことをして意味があるのだろうか、と。


彼を忘れたいわけではない。


全部消えてしまうのは、きっと嫌だった。


けれど。


このまま抱え続けるには、少し苦しかった。


町で彼を見かけるたび。


幸せそうに笑う姿を見るたび。


胸の奥が、静かに擦り減っていく。


やがて、井戸が見えた。


街の外れの森の更にその奥。


とても、静かで穏やかな場所。


古びた石組みの井戸だけが、ぽつりとそこにあった。


エナは鞄から、小さな空瓶を取り出す。


そしてもう一つ。


布に包まれた、小さなネックレス。


幼い頃、一緒に行ったお祭りで彼が買ってくれたものだった。


高価なものではない。


露店で売られていたような、小さな飾り。


けれど、ずっと手放せなかった。


エナは瓶の蓋を開ける。


まるで壊れ物を扱うように、そっとネックレスを入れた。


その瞬間。


胸の奥にしまい込んでいた記憶が、静かに揺れる。


夕焼けの帰り道。


笑いながら名前を呼ばれたこと。


子供の頃、他愛もない約束をしたこと。


ずっと隣にいられると、思っていたこと。


エナは目を閉じた。


それから、小さく息を吐く。


瓶の蓋を閉める音が、やけに静かに響いた。


井戸の前へ立つ。


深い穴の底は見えない。


ただ、どこまでも静かだった。


エナはしばらく瓶を抱きしめる。


そして――


そっと、井戸へ放り投げた。


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