表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

遠くへ置いてきたもの ④



瓶が落ちる音は、聞こえなかった。


ただ、深い静けさだけが井戸の底へ沈んでいった気がした。


世界は何一つ変わっていないはずなのに。


胸の奥は、妙に静かだ。


何だか長いこと胸へ刺さっていた棘が、少し深い場所へ沈んだような気がする。


エナは井戸を見下ろす。


暗い底は、何も映さない。


ただ静かに、夢を飲み込んでいるのだろうか。


その時ふと、


――私は、何を置いてきたのだろう。


そんな考えが浮かんだ。


けれどすぐに、その輪郭はぼやけてしまう。


思い出せそうで、届かない。


まるで薄い水の向こう側へ置いてきてしまったみたいに。


エナは小さく首を振る。


考えても仕方がない気がした。


それより今は、ひどく眠かった。


エナはゆっくりと井戸へ背を向ける。


遠くで鳥が鳴いた気がした。


けれどその音も、どこか遠い世界のもののように聞こえた。



---


エナは再び店へ立っていた。


街は相変わらず賑やかだった。


焼き菓子の甘い香り。


行き交う人々の声。


忙しさに追われていると、不思議と余計なことを考えずに済む。


「エナ、悪いけど少しおつかい頼まれてくれる?」


店の奥から声が飛んできた。


「はーい」


エナは布袋を受け取ると、そのまま通りへ出る。


空は薄曇りだった。


人々のざわめきの中を歩いていると、通りの端に小さな露店が見えた。


並べられているのは、安価な飾りばかりだ。


硝子玉。


細い鎖。


小さな指輪。


その中に、銀色のネックレスがあった。


エナは、なぜか足を止める。


胸の奥が、わずかに揺れた。


誰かに、似たようなものを貰った気がした。


けれど。


それが誰だったのか。


いつのことだったのか。


思い出そうとすると、水の底へ触れるみたいに輪郭がぼやけてしまう。


「お姉さん、見ていく?」


店主の声に、エナははっと顔を上げた。


「あ……ごめんなさい」


小さく笑って、再び歩き出す。


通りのざわめきへ紛れるように、その微かな違和感も静かに薄れていった。



---


数日後。


再び店の扉が開く。


鈴の音が、小さく鳴った。


「いらっしゃいませ」


エナは穏やかに笑う。


以前より、少しだけ柔らかな顔だった。


「旅の方?」


吟遊詩人は静かに目を細める。


「ええ、以前にもこちらへ」


そこまで言いかけて、言葉を止めた。


エナは困ったように笑う。


「あら、ごめんなさい。最近、少し物忘れが多くて」


悪気はない。


吟遊詩人はしばらく彼女を見つめ――やがて静かに微笑んだ。


「いいえ。初めまして、で構いませんよ」


エナはほっとしたように笑う。


「ありがとうございます」


吟遊詩人を席に案内してから、エナは茶を淹れながら、ふと口を開く。


「あなた、吟遊詩人なんですか?」


「ええ。各地で不思議なお話を集めながら旅をしております」


するとエナは少し考え込むように目を伏せた。


「……それなら」


「私の話も、不思議なお話になるのかしら」


吟遊詩人は何も言わない。


エナは茶器を見つめながら、小さく笑った。


「最近、少し変なんです」


「ぼーっとすることが増えて」


「何かを忘れている気がするのに、それが何だったのか思い出せなくて」


そこまで言ってから、困ったように目を伏せる。


「……それに最近、変な夢を見るんです」


エナは湯気の向こうをぼんやり見つめた。


「とても暗い場所にいるんです」


「そこはまるで水の底みたいに静かで」


「そして、周りには沢山の瓶が浮かんでいるんです」


吟遊詩人の指が、琵琶へ静かに触れる。


エナは気づかないまま続けた。


「その瓶を見てると、何だか胸が苦しくなるんです」


「瓶に触ろうとすると、沈んでしまう」


小さく息を吐く。


「それで時々ね」


「上から誰かが私を見てるの」


「顔はよく見えないのに、どうしてか……私に似てる気がするんです」


エナはそこで困ったように笑った。


「変な夢でしょう?」


「なのに目が覚めると、何を見てたのか上手く思い出せなくて」


まるで本当に、他人の夢を語るみたいに話している。


「なんだか最近、昔のことが遠い夢みたいに感じるんです」


「大事だった気がするんだけど……」


そう言って、エナは少し困ったように笑った。


吟遊詩人は静かに目を伏せる。


それから穏やかな声で、小さく言った。


「思い出せないくらいが、ちょうど良い夢もありますから」


「……そう、かしら」


エナはぼんやりとどこかを見つめていた。


店の外では、人々の笑い声が響いている。


その賑わいだけが、ひどく遠い。



---


琵琶の弦が、ひとつ鳴る。


「……夢を沈めすぎると」


「時々、人は自分の心まで遠くへ置いてきてしまうのかもしれませんね」


吟遊詩人は、そう言ってからしばらく黙った。


川面には、すでに夜の色が滲んでいる。


どこかで笑い声がした。


すぐそばのはずなのに、遠い場所で鳴っているようだった。


吟遊詩人は静かに琵琶へ手を添える。


「――そして」


弦が、もう一度だけ小さく震えた。


「置いてきた場所は」


「思い出そうとしても、もう“自分の場所”ではなくなってしまうのでしょう」


吟遊詩人は琵琶を肩に掛け直し、静かに立ち上がった。


一度だけ川面を見て、何も言わずに背を向ける。 


足音だけが、薄い夕暮れへ溶けていく。


やがてその姿は、街の灯りの中へほどけるように消えていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ