遠くへ置いてきたもの ④
瓶が落ちる音は、聞こえなかった。
ただ、深い静けさだけが井戸の底へ沈んでいった気がした。
世界は何一つ変わっていないはずなのに。
胸の奥は、妙に静かだ。
何だか長いこと胸へ刺さっていた棘が、少し深い場所へ沈んだような気がする。
エナは井戸を見下ろす。
暗い底は、何も映さない。
ただ静かに、夢を飲み込んでいるのだろうか。
その時ふと、
――私は、何を置いてきたのだろう。
そんな考えが浮かんだ。
けれどすぐに、その輪郭はぼやけてしまう。
思い出せそうで、届かない。
まるで薄い水の向こう側へ置いてきてしまったみたいに。
エナは小さく首を振る。
考えても仕方がない気がした。
それより今は、ひどく眠かった。
エナはゆっくりと井戸へ背を向ける。
遠くで鳥が鳴いた気がした。
けれどその音も、どこか遠い世界のもののように聞こえた。
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エナは再び店へ立っていた。
街は相変わらず賑やかだった。
焼き菓子の甘い香り。
行き交う人々の声。
忙しさに追われていると、不思議と余計なことを考えずに済む。
「エナ、悪いけど少しおつかい頼まれてくれる?」
店の奥から声が飛んできた。
「はーい」
エナは布袋を受け取ると、そのまま通りへ出る。
空は薄曇りだった。
人々のざわめきの中を歩いていると、通りの端に小さな露店が見えた。
並べられているのは、安価な飾りばかりだ。
硝子玉。
細い鎖。
小さな指輪。
その中に、銀色のネックレスがあった。
エナは、なぜか足を止める。
胸の奥が、わずかに揺れた。
誰かに、似たようなものを貰った気がした。
けれど。
それが誰だったのか。
いつのことだったのか。
思い出そうとすると、水の底へ触れるみたいに輪郭がぼやけてしまう。
「お姉さん、見ていく?」
店主の声に、エナははっと顔を上げた。
「あ……ごめんなさい」
小さく笑って、再び歩き出す。
通りのざわめきへ紛れるように、その微かな違和感も静かに薄れていった。
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数日後。
再び店の扉が開く。
鈴の音が、小さく鳴った。
「いらっしゃいませ」
エナは穏やかに笑う。
以前より、少しだけ柔らかな顔だった。
「旅の方?」
吟遊詩人は静かに目を細める。
「ええ、以前にもこちらへ」
そこまで言いかけて、言葉を止めた。
エナは困ったように笑う。
「あら、ごめんなさい。最近、少し物忘れが多くて」
悪気はない。
吟遊詩人はしばらく彼女を見つめ――やがて静かに微笑んだ。
「いいえ。初めまして、で構いませんよ」
エナはほっとしたように笑う。
「ありがとうございます」
吟遊詩人を席に案内してから、エナは茶を淹れながら、ふと口を開く。
「あなた、吟遊詩人なんですか?」
「ええ。各地で不思議なお話を集めながら旅をしております」
するとエナは少し考え込むように目を伏せた。
「……それなら」
「私の話も、不思議なお話になるのかしら」
吟遊詩人は何も言わない。
エナは茶器を見つめながら、小さく笑った。
「最近、少し変なんです」
「ぼーっとすることが増えて」
「何かを忘れている気がするのに、それが何だったのか思い出せなくて」
そこまで言ってから、困ったように目を伏せる。
「……それに最近、変な夢を見るんです」
エナは湯気の向こうをぼんやり見つめた。
「とても暗い場所にいるんです」
「そこはまるで水の底みたいに静かで」
「そして、周りには沢山の瓶が浮かんでいるんです」
吟遊詩人の指が、琵琶へ静かに触れる。
エナは気づかないまま続けた。
「その瓶を見てると、何だか胸が苦しくなるんです」
「瓶に触ろうとすると、沈んでしまう」
小さく息を吐く。
「それで時々ね」
「上から誰かが私を見てるの」
「顔はよく見えないのに、どうしてか……私に似てる気がするんです」
エナはそこで困ったように笑った。
「変な夢でしょう?」
「なのに目が覚めると、何を見てたのか上手く思い出せなくて」
まるで本当に、他人の夢を語るみたいに話している。
「なんだか最近、昔のことが遠い夢みたいに感じるんです」
「大事だった気がするんだけど……」
そう言って、エナは少し困ったように笑った。
吟遊詩人は静かに目を伏せる。
それから穏やかな声で、小さく言った。
「思い出せないくらいが、ちょうど良い夢もありますから」
「……そう、かしら」
エナはぼんやりとどこかを見つめていた。
店の外では、人々の笑い声が響いている。
その賑わいだけが、ひどく遠い。
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琵琶の弦が、ひとつ鳴る。
「……夢を沈めすぎると」
「時々、人は自分の心まで遠くへ置いてきてしまうのかもしれませんね」
吟遊詩人は、そう言ってからしばらく黙った。
川面には、すでに夜の色が滲んでいる。
どこかで笑い声がした。
すぐそばのはずなのに、遠い場所で鳴っているようだった。
吟遊詩人は静かに琵琶へ手を添える。
「――そして」
弦が、もう一度だけ小さく震えた。
「置いてきた場所は」
「思い出そうとしても、もう“自分の場所”ではなくなってしまうのでしょう」
吟遊詩人は琵琶を肩に掛け直し、静かに立ち上がった。
一度だけ川面を見て、何も言わずに背を向ける。
足音だけが、薄い夕暮れへ溶けていく。
やがてその姿は、街の灯りの中へほどけるように消えていった。




