第9話 すべての証拠は揃った
リゼッタ・ホルンの取り調べは、私が想像していたよりもあっけなく終わった。
拘留室に入ったリゼッタは、三日前とは別人のようだった。金色の巻き毛は乱れ、目の下に深い隈がある。だが、瞳の奥にはまだ計算の光が残っていた。
「全部話すわ。その代わり、減刑の約束をちょうだい」
カスパルの前に座ったリゼッタは、恐れているのではなかった。これ以上隠しても得がないと判断しただけだ。損得勘定に長けた女だった。
「すべて正直に話していただければ、司法取引の手続きを進めます」
「いいわ。ベルントに言われたのよ。『公爵を始末すれば、財産はすべてあなたのものになる。遺言書は私が用意する。あとは毒を盛るだけだ』って」
リゼッタはそこで一度口を閉じ、爪を見つめた。かつて華やかだっただろう指先は、拘留生活で荒れていた。
「最初は断ったわ。でもベルントは巧みだった。『公爵はいずれあなたも捨てる。イルゼと同じようにね』って。あの言葉で、背中を押されたの」
カスパルはペンを動かしながら、表情を変えなかった。
「遺言書の偽造について。あなたの筆跡と一致しています」
「書いたのは私よ。でも指示したのはベルント。筆跡の手本も彼が持ってきた。公爵の過去の署名入り文書を何枚も集めてね。練習用の紙も全部ベルントが処分したはず。抜け目のない男だから」
「毒の入手経路は」
「ベルントが手配した薬草商から。あの特殊なトリカブトを、免許なしに入手するルートを持っていたのはベルントだけよ。代金は彼の管理する口座から出ているはず。調べればすぐにわかるわ」
リゼッタの証言はすべて記録された。署名、拇印。法的手続きに則った正式な調書だ。
◇
カスパルと二人で、証拠の全体像を整理した。
横領の証拠──ハインリヒが十年かけて集めた資金移動記録。二十年分の架空支出。匿名口座への送金履歴。
遺言書の偽造──筆跡鑑定と羊皮紙の年代分析。リゼッタの自白。
毒殺の証拠──リゼッタの証言。薬草商の取引記録。ベルントの口座からの支払い。
すべてが一つの線で繋がった。ベルント・ファイファーという一人の男が、十年以上にわたって公爵家を食い物にし、最後には公爵の命まで奪った。
私はその証拠の山を眺めた。一つ一つは、カスパルと二人で、あるいはハインリヒが一人で、長い時間をかけて積み上げたものだ。壁を直すように。一つずつ、丁寧に。維持術式と同じだと思った。派手さはないが、確実に、地道に。
「ベルント・ファイファーの逮捕状を請求します」
カスパルが監査局長に報告した日、私は隣室で待っていた。壁越しに聞こえるカスパルの声は、いつもどおり冷静で正確だった。
「請求、認められました。明日早朝に執行します」
「……終わるのですね」
「まだです。裁判がある。証拠はすべて揃いましたが、法廷でそれを認めさせなければなりません。弁護側は必ず反論してくる。一つ一つの証拠の信頼性を、法廷で証明する必要があります」
カスパルは慎重だった。だが、その目には、ほのかな安堵が浮かんでいた。初めて見る色だった。
翌日の早朝、ベルント・ファイファーは宮廷書記官の執務室で逮捕された。
抵抗はしなかった。ただ、手錠をかけるカスパルに向かって、一言だけ言った。
「若いな。まだ世の中の仕組みを知らないらしい」
カスパルは答えなかった。ただ黙って手続きを進めた。言葉で応じないことが、最も雄弁な返答だった。ベルントの顔から、初めて余裕が消えた。沈黙に勝てない人間がいることを、この男は知らなかったのだ。
ベルントの逮捕を受けて、王宮内に激震が走った。賄賂を受け取っていた複数の役人が次々と辞任し、公爵家の不正経理の全容が公になった。新聞にも載った。王都中が騒然となった。私の名前も記事に出ていた。「元公爵夫人の協力により横領と毒殺の全容が発覚」と。二十年間、名前すら呼ばれなかった女の名が、こんな形で世に出るとは思わなかった。
「これで公爵家に関わる事件は、ほぼ解決です」
カスパルがそう言ったのは、逮捕から一週間後のことだった。
「残るのは、あなた自身の問題です」
「私の?」
「婚姻の正式な解消。そして、未払い報酬の請求。二十年分の維持術式の対価は、公爵家の残余財産から支払われるべきです」
「そんなこと、今さら──」
「当然の権利です」
彼の声は、いつもの無感情とは明らかに違っていた。静かだが、熱がある。怒りに似ているが、もっと優しいもの。誰かのために怒れる人間の声だ。
「計算しました。維持術式の市場価値、二十年分。金貨一万六千枚。これに加えて、横領された架空維持費──あなたの労働を前提に不正に引き出された金額を含めると、あなたに支払われるべき正当な対価は、金貨二万枚を超えます」
「そんな大金……」
「あなたの二十年間に見合う金額です。それでも少ないくらいだと、私は思います」
カスパルの目が、初めて真正面から私を見ていた。冷たい緑の瞳の奥に、静かな炎が見えた。揺らがない、しかし確かな熱。
「あなたは二十年間、『代わりはいくらでもいる』と言われ続けた。それは嘘です。あなたの代わりは、どこにもいません」
(ああ)
(この人は、ずっとそう思ってくれていたのか)
目頭が熱くなった。だが、泣かなかった。今は泣くときではない。
「カスパル主任」
「はい」
「請求書の作成を手伝ってもらえますか」
彼は、小さく笑った。初めて見る笑顔だった。口角がほんの少しだけ上がる、控えめな笑み。
「もちろんです。それが私の仕事ですから」
◇
その夜、久しぶりにバーバラの店を訪ねた。
「おや、久しぶりだね。元気そうで何よりだ」
「バーバラさん。ありがとうございました。あなたがいなかったら、私はきっと路頭に迷っていました」
「何言ってるんだい。あんたの薬草維持術式のおかげで、うちの品質がこの数週間で評判になったんだよ。常連さんが三割増えた。こっちこそ感謝してるさ」
温かいスープを一緒に飲んだ。レンズ豆の、あのスープ。味がする。ちゃんと味がする。公爵家で毎日飲んでいたスープは、何も感じなかった。舌が麻痺していたのではない。心が麻痺していたのだ。
「それで、あの監査官の坊やとはどうなったんだい」
「坊や……? カスパル主任のことですか」
「ほら、やっぱり顔が赤くなった」
「な、なっていません」
バーバラが声を上げて笑った。四十年この街で生きてきた老婆の笑い声は、枯れた薬草のように乾いていて、でも温かかった。
「あんたね、人に価値を認められるってのは、特別なことなんだよ。誰かがあんたの仕事を正当に評価してくれたなら、それはちゃんと受け取りな。遠慮することはないんだから」
帰り道、夜空を見上げた。
二十年間、屋敷の天井ばかり見ていた。空がこんなに広いことを忘れていた。星がこんなに多いことも。
監査局への帰り道、カスパルの外套の袖が、私の肩にかすかに触れた。
「寒くないですか」
「……大丈夫です」
大丈夫だった。もう、寒くはなかった。




