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「代わりはいくらでもいる」20年間、無給の秘書として働かされた公爵夫人が消えた朝、屋敷はただのボロ屋になり果てた  作者: 渚月(なづき)


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10/10

第10話 私の名前を呼んでください

裁判は三日間にわたって行われた。


傍聴席は毎日満席だった。ヴァルシュタイン公爵家の横領事件と毒殺事件は王都中の話題になっており、新聞は連日、一面で報じていた。


ベルント・ファイファーは、最後まで自分の正当性を主張した。


「公爵家の財政を支えていたのは私だ。資金の移動はすべて合法的な手続きに則っている。横領などという言いがかりは断じて受け入れられない」


弁護側の主張は巧妙だった。書類の署名はすべて公爵本人のものであり、ベルントは指示に従っただけだと。死人に責任を押し付ける論法だ。


だが、証拠の壁は崩せなかった。


ハインリヒが十年かけて集めた資金移動記録。ベルント本人の口座に入金された記録。リゼッタの証言。薬草商の取引帳簿。筆跡鑑定。羊皮紙の年代分析。


そして、私が二十年間にわたって作成し保管してきた屋敷管理の記録。日々の支出と実際の作業内容の不一致を、一件ずつ示していった。


一つ一つは小さな証拠だ。単独では決定力を持たない。だが、それらが積み上がり、鎖のように繋がったとき、ベルントの弁護は沈黙した。


カスパルが最終弁論でこう述べた。


「被告人は『世の中の仕組み』という言葉を好んで使います。しかし、仕組みとは法に基づくものです。法の外にある仕組みは、不正と呼びます」


判決──ベルント・ファイファー、横領および殺人教唆の罪で有罪。終身投獄。


リゼッタ・ホルン、殺人および公文書偽造の罪で有罪。司法取引により減刑、禁固十五年。


法廷を出たとき、陽射しが眩しかった。三月の風が、頬を撫でていく。冷たいけれど、冬の風ではない。春の匂いがする。土と、若葉と、遠くの花の香り。


「終わりましたね」


カスパルが隣に立っていた。いつもの藍色の外套。銀の胸章。でも、その目はもう冷たくはなかった。緑色の瞳に、陽の光が反射している。


「ええ。終わりました」





裁判の後に、もう一つの手続きが残っていた。


婚姻の正式な解消と、未払い報酬の請求。


私が作成し、カスパルが法的に整備した請求書は、二十年分の維持術式の対価として金貨二万枚の支払いを求めるものだった。公爵家の残余財産管理人との交渉の結果、全額が認められた。


「金貨二万枚。イルゼさん、これからどうしますか」


カスパルの問いに、私はすでに答えを持っていた。


「薬草の保存技術を研究する工房を開きます。バーバラさんの店の近くに」


維持術式の応用。薬草だけでなく、食品、繊維、建材──物質の劣化を防ぐ技術には、幅広い需要がある。二十年間の実務経験は、他の誰にも真似できない強みだ。


「それは……いい考えですね」


「バーバラさんが、『自分の足で立て』と言ってくれたんです。だから、立ちます。誰かの屋根の下ではなく、自分の屋根の下で」


ハインリヒも、裁判の翌日に私を訪ねてきた。


官服を脱ぎ、地味な平服を着た彼は、もう鷹のようには見えなかった。ただの、約束を果たした老人だった。


「あんたの父にようやく顔向けできるよ。十年も二十年もかかってしまったが」


「ハインリヒ顧問官。いえ……ハインリヒさん。父のことを、ずっと守ってくださっていたのですね」


「守れたかどうかは怪しいがな。結局、あんたは自分で道を切り開いた。誰の力も借りず──いや、借りたか。あの監査官の坊やの力は、ずいぶん借りたようだな」


ハインリヒが、初めて笑った。皺だらけの顔が、くしゃりと崩れた。


「あんたの父も、きっと誇りに思っているだろう」


老人の目が潤んでいた。私の目も。


「これからどうされるのですか」


「引退する。もう十分だ。田舎に小さな家を買って、庭でも弄ろうかと思っている」


ハインリヒは軽く頭を下げ、去っていった。背中が少し丸くなっていた。だが、その足取りは軽かった。二十年の重荷を降ろした人間の歩き方だった。





工房の開設準備を始めた翌週のことだ。


バーバラの店で薬草の仕分けを手伝っていると、カスパルが訪ねてきた。


平服だった。藍色の外套ではなく、地味な茶褐色の上着。銀の胸章もない。襟元が少し歪んでいる。急いで着替えてきたのだろうか。


「休日ですか」


「いえ、仕事の帰りです。少し……立ち寄っただけです」


バーバラが奥の部屋から顔を出し、私たちを見て、にやりと笑い、何も言わずに引っ込んだ。


「あの、イルゼさん」


「はい」


「工房のこと、順調ですか」


「ええ、おかげさまで。場所も決まりました。バーバラさんの店から通り二つ先の、空き家を借りることにしました」


「そうですか」


「内装の修繕が必要なんですが、それは得意ですから」


「ああ……そうですね。維持術式で」


沈黙が流れた。カスパルは何か言いたそうにしていたが、言葉が出てこないようだった。手が所在なさげに動いている。この人は、書類を前にすると誰よりも雄弁なのに、こういう場面ではまるで子供のようになる。


「カスパル主任」


「あの、主任はもうやめてもらえませんか。今日は、ただの……」


「では、カスパルさん」


「……はい」


「先日、紋章学の本を読みました。蝋封の鑑定方法を調べていたら、姓の語源の章に行き当たって」


「はあ」


「ゼルマンという姓は、古い言葉で『魂の番人』という意味だそうですね」


カスパルが少し驚いた顔をした。


「よくご存じで。調べたのですか」


「ええ。番人にふさわしい方だと思いました。真実の番人」


彼の耳が赤くなった。首筋まで、じわりと。書類の前では誰よりも冷静な人が、たった一言で耳まで赤くなる。その対照が、不思議と愛おしかった。


「イルゼさん」


「はい」


「名前で呼んでもいいですか。その……敬称なしで」


「……ええ」


「イルゼ」


それだけだった。名前を呼んだだけだった。


でも。


「代わりはいくらでもいる」と言われ続けた二十年間。その間、私の名前を──「イルゼ」という名前を──大切に呼んでくれた人が、いただろうか。


ゲオルクは「お前」としか呼ばなかった。使用人たちは「奥方様」だった。ドロテだけが「イルゼ様」と呼んでくれたが、それは監視対象への呼称に過ぎなかった。


カスパルの「イルゼ」は、違った。その二文字に、敬意と、温かさと、もう一つ言葉にできない何かが込められていた。


「もう一度、呼んでもらえますか」


「イルゼ」


二度目は、少しだけ柔らかかった。一度目より、ほんの少しだけ近い距離の声。


「ありがとうございます。……カスパル」


バーバラの店の軒先で、夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。赤と橙の光が、古い石畳を染めている。春の終わりの、穏やかな夕暮れだった。


彼の手が、そっと私の手に触れた。握らなかった。ただ、触れただけだった。指先が重なる。温かい。


それで十分だった。


二十年間、私を繋ぎ止めていた鎖は、もうどこにもない。「代わりはいくらでもいる」という言葉の呪いは、解けた。


私の足で立ち、私の名前で生きていく。その隣に、静かに立っていてくれる人がいる。


薬草の匂いがした。ラベンダーの、あの穏やかな香り。バーバラの店から風に乗って漂ってくる。


軒先に吊るされたラベンダーの束が、夕風に揺れていた。


振り返らなかった。もう、振り返る必要はなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
拝読させていただきました。 とてもバランスが良くまとまったストーリーでした。 事件の推理部分も、恋愛部分もバランスが良く、終わり方も2人のこれからが想像させる終わり方でとても好感が持てました。 ただ1…
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