第8話 逃げる者と追う者
ハインリヒから得た書類は、決定的だった。
宮廷書記官ベルント・ファイファー。この男が公爵家の横領を十年以上にわたって仲介し、資金を王宮内の複数の部署に賄賂として流していた。名前、金額、日付、受取先。すべてが一枚の紙に記されている。
「ベルントは公爵ゲオルクと裏で結託していました」
カスパルが書類を一枚ずつ照合しながら言った。
「公爵が署名した架空支出の大半は、ベルントの指示によるものです。ベルントが支出名目を作り、公爵が署名し、資金が抜かれる。役割分担が明確です」
「でも、公爵は死んだ。ベルントにとって、公爵の死は──」
「好都合です。死人に口なし。横領の責任をすべて死んだ公爵に押し付けられる。遺言書の偽造も、動機の一部かもしれない。相続権をリゼッタに移すことで、公爵家の資産をコントロールし続ける算段だった可能性があります」
パズルのピースが、一つずつ嵌っていく感覚がある。
「リゼッタを取り調べる必要があります」
「すでに令状を手配しました。問題は、ドロテの身柄です」
ドロテは監査局の拘留室にいた。証人保護の観点から外部との接触を制限していたが、正式な起訴手続きには時間がかかる。
「ドロテの証言は、リゼッタとベルントを結びつける鍵です。彼女が証言を翻したり、あるいは証言できなくなれば──」
「すべてが振り出しに戻りかねない」
◇
その日の夕方、事態は急変した。
「主任、大変です。ドロテ・ヘスラーが拘留室から消えました」
カスパルの顔から、一瞬で血の気が引いた。見たことのない表情だった。書類を握る手が白くなる。
「消えた? どういうことだ」
「午後の面会時間に、弁護士と名乗る男が来まして。面会室に入った後、裏口から──」
「その弁護士の身元は」
「ベルント・ファイファー顧問官の紹介状を持って──」
カスパルが机を叩いた。乾いた音が部屋に響いた。彼がこれほど感情を露わにするのを、初めて見た。あの冷たい緑の目に、明確な怒りが灯っている。
「全局員に即時招集をかけろ。ドロテ・ヘスラーの捜索。王都の全門に通達。過去二十四時間の出入りを記録を確認しろ」
指示を出すカスパルの横顔は、普段の冷静さとはまるで別人だった。戦場の指揮官のような鋭さ。
私も動いた。
「カスパル主任。ドロテの行動パターンは、二十年間見てきた私が一番よく知っています」
「何かわかることがありますか」
「ドロテは極端に寒がりです。真夏でも薄手の上着を手放さない。隠れるなら、暖が取れる場所を選ぶはず。もう一つ、彼女はひどい方向音痴で、知らない道を一人で歩けません。迷ったら必ず、知っている場所に戻ろうとする習性があります」
「つまり、彼女が知っている場所で、暖が取れる場所──」
「公爵邸の周辺か、あるいは出身地の南区です。南区には古い共同浴場があります。年中温水が湧いている。ドロテが子供の頃に通っていた場所です。以前、懐かしいと話していました」
二十年間の記憶が、こんな形で役に立つとは思わなかった。ドロテの何気ない言葉を、私は覚えていた。あの無表情の奥で、たった一度だけ見せた懐かしそうな顔を。
カスパルは即座に部下を南区に向かわせた。
結果が出たのは、翌日の夜明け前だった。
だが、それは私たちが望んだ結果ではなかった。
「ドロテ・ヘスラーは、南区の路地で発見されました。共同浴場に向かう途中と思われる石段で、足を滑らせたものと見られます」
カスパルの部下が、低い声で報告した。顔が青い。
「状態は」
「……死亡しています。頭部を石段の角に強打した模様です」
部屋が静まり返った。窓の外で、カラスが鳴いた。
ドロテが死んだ。
逃亡中の事故。暗い路地の、雨で濡れた石段で足を滑らせて。
あまりにも──都合が良すぎる。
ドロテの寒がりが、結局彼女を殺したのかもしれない。暖を求めて共同浴場に向かった。知っている場所に、知っている道で。暗い夜道を、一人で。その習性を、ベルントの手下も知っていたのだろうか。それとも、本当にただの不幸な事故だったのか。真実は、もう誰にもわからない。
「検死を行います」
カスパルの声は低く、硬かった。
「ただし、仮に他殺だったとしても、証明は極めて困難です。暗い路地。雨上がりの石段。物理的な外傷だけでは、事故と故意の区別がつきません。足を滑らせたのか、突き飛ばされたのか」
ドロテの証言が、永遠に失われた。
ベルントにとって、これ以上好都合な展開はない。唯一の証人が消えた。
「証言がなくても、書類の証拠は残っています」
私はそう言った。声が震えないよう、腹に力を入れた。
「はい。ハインリヒ顧問官から得た資金移動記録がある。ドロテの証言がなくとも、横領の立証は可能です。ただし、毒殺事件については──」
「リゼッタの証言が必要になる」
「そうです。リゼッタ・ホルンが、ベルントの関与を認める証言をしなければ、毒殺とベルントを結びつけることができません」
リゼッタ・ホルン。公爵の愛人にして、遺言書の偽造者。毒殺の実行犯。あの金色の巻き毛の女が、今どこにいるのか。公爵家の凍結された資産の前で、途方に暮れているのだろうか。
「リゼッタがベルントの指示で動いていたことを証言すれば、すべてが繋がります」
「彼女が証言するでしょうか」
「するように持っていきます。リゼッタにとって、ベルントの庇護はもう意味がない。公爵が死に、遺言書の偽造が発覚し、公爵家の財産も凍結されている。ベルントを庇い続ける理由がありません。むしろ、彼を差し出すことで自身の減刑を勝ち取ったほうが合理的です」
カスパルは淡々と策を組み立てていく。感情を交えず、論理だけで最善手を打つ。しかし、ペンを握る手には、いつもより力がこもっていた。ドロテを守れなかった悔いが、あの冷静な指先を強張らせている。
「イルゼさん」
「はい」
「ドロテのことは、残念でした」
彼の声は静かだった。事務的でも冷淡でもなく、ただ静かだった。
「……ありがとうございます」
裏切り者だった。二十年間、私を監視し、報告していた。けれど、同時に二十年間、最も近くにいた人でもあった。
彼女が最後に言った言葉を思い出す。「あなたがいなくなって困ったのは、私だけでした」。
あれが本心だったのかどうか、もう確かめる術はなかった。
窓の外では、雨が降り始めていた。石畳を叩く雨音が、静かな部屋に染みてくる。ドロテは雨が嫌いだった。髪が乱れるからと、いつも丁寧に傘を差していた。あの几帳面な人が、雨の夜に濡れた石段を歩いていた。どれほど追い詰められていたのだろう。
「泣いてもいいですか」
「どうぞ。記録には残しません」
カスパルは部屋を出て、扉を静かに閉めた。
私は一人で泣いた。ドロテのために。二十年間の、嘘と本当が入り混じった信頼のために。そして、もう取り戻せないものすべてのために。涙が頬を伝い、手の甲に落ちる。温かかった。自分の涙がこんなに温かいことを、この二十年間ずっと忘れていた。




