第7話 敵の仮面の下
ドロテの証言によって、事件の輪郭が見え始めていた。
公爵ゲオルクの毒殺犯はリゼッタ。遺言書の偽造もリゼッタ。ドロテは共犯として黙認していた。そして、公爵家の横領は──誰が糸を引いていたのか。
「横領の全容がまだ見えません」
カスパルが書類の山を前にして、珍しく眉をひそめた。
「リゼッタの浪費分を差し引いても、金貨六千枚以上の行方が不明です。この金額は、公爵家単独の不正では説明がつかない。資金の一部が、王宮内の別の口座に流入している形跡があります」
「王宮の人間が関与していると」
「そう考えるのが自然です」
重い空気が流れた。王宮の人間が絡む横領は、監査局にとっても扱いが難しい。権力者を敵に回す調査だ。
「主任、お客様です」
監査局の若い局員が、息を切らせて報告に来た。
「ハインリヒ上級顧問官がお越しです」
カスパルの表情が、明らかに硬くなった。顎の筋肉が動いたのが見えた。
ハインリヒ上級顧問官。名前は知っている。王宮の中でも上位の地位にある人物で、貴族領地の監督権を持つ。公爵家の管理にも関与しているはずだ。
「通してください」
入ってきたのは、白髪交じりの痩身の男だった。五十代半ば。深い皺が顔に刻まれ、目だけが鷹のように鋭い。背筋はまっすぐで、歩き方に軍人の名残がある。
「カスパル主任監査官。ヴァルシュタイン公爵家の調査について、進捗報告を求める」
「現在進行中です、ハインリヒ顧問官」
「この女性は何だ」
ハインリヒの視線が私に移った。値踏みするような目だ。上から下まで舐めるように見る。
「調査協力者です」
「元公爵夫人だな。毒殺の容疑者を調査に参加させるとは、ずいぶんと大胆なやり方だ」
「容疑は限りなく薄いと判断しています」
「判断するのは私の権限だ。カスパル、この件の調査指揮権は上級顧問室の管轄にある」
カスパルの目が、冷たく光った。普段の無感情とは質の違う冷たさ。
「調査指揮権は監査局に帰属します。上級顧問室にあるのは監督権のみです。行政法第四十七条に明記されています」
「監督権には調査の差し止めも含まれることは、ご存じだろう」
空気が張り詰めた。二人の間に、目に見えない力がぶつかり合っている。
ハインリヒはこの調査を止めようとしている。なぜ。関与しているのか、それとも別の理由があるのか。その答えは、彼の目の奥にあるはずだ。
「顧問官。一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
私が口を開くと、ハインリヒが不快そうにこちらを見た。
「公爵家の横領資金の一部は、王宮内の口座に流入しています。受取人が誰か、ご存じですか」
ハインリヒの目が、一瞬だけ揺れた。ほんの一瞬。虹彩が収縮し、視線が泳ぐ。だが、すぐに元の冷厳な表情に戻った。
「知らんな。横領の話など初めて聞く」
嘘だ。目の動きが、知っている人間のそれだった。知らない情報には人は「困惑」するが、ハインリヒの反応は「動揺」だった。困惑と動揺は、似ているようで筋肉の動きが全く違う。
「そうですか。では、調査を進めれば自ずと判明しますね」
ハインリヒは何も言わず、踵を返して出ていった。靴音が廊下に鋭く反響した。
扉が閉まった後、カスパルが低い声で言った。
「彼を怒らせましたね」
「すみません。少し挑発的だったかもしれません」
「いえ。むしろ正しい一手でした。反応を見る必要があった。彼は知っている。問題は、彼自身が受取人なのか、それとも受取人を知っているだけなのか」
◇
その夜、保護施設の窓の外に人影が見えた。
ハインリヒの従者を名乗る男が、小さな紙切れを差し出した。
「顧問官からの伝言です。明日、二人きりで会いたいと。旧市街の広場、午後三時」
翌日、カスパルに相談した。
「行くべきです。ただし、私が近くで待機します。危険を感じたら、すぐに合図を」
午後三時。旧市街の広場に立つと、ハインリヒが一人で現れた。昨日とは違い、官服ではなく地味な外套を着ている。
「来たか。正直な女だ」
「用件を伺います」
ハインリヒは周囲を見渡してから、声をひそめた。
「昨日は失礼した。あの場で本当のことは言えなかった。公爵家の横領に、私は関与していない」
「では、あの反応は何だったのですか」
「受取人の名前を知っているから動揺した。だが、受け取ったのは私ではない」
「誰が」
「宮廷書記官のベルント・ファイファーだ。奴が公爵家を通じて資金を吸い上げ、王宮内の複数の部署に流していた。賄賂として。十年以上にわたってだ」
「なぜ、今それを私に話すのですか」
ハインリヒの鷹のような鋭さが消えた。そこにいたのは、疲れた老人だった。肩の力が抜け、皺の一つ一つが深くなったように見えた。
「二十年前、あんたが公爵家に嫁いだ日のことを覚えている。あんたの父に頼まれたんだ。『娘を頼む』と。だが私は何もできなかった。ベルントの影響力は王宮全体に及んでいた。逆らえば、私も消される」
「父と、知り合いだったのですか」
「旧友だよ。若い頃、同じ学舎で学んだ。あの男は、あんたの婚姻契約に離縁条項を入れるために随分苦労した。私もそれを手伝った」
あの離縁条項。父が入れたことは知っていたが、ハインリヒが協力していたとは。父が亡くなったのは十年前だ。最期に会ったとき、父は「お前のことが心配だ」とだけ言った。あのとき、父はハインリヒに何を託したのだろう。
「敵のふりをしていたのは──」
「ベルントに気づかれないためだ。あの男は用心深い。味方だとわかれば、即座に排除しにかかる。私が監査に敵対する立場をとっていれば、ベルントの動きを内側から見ることができた」
ハインリヒは一枚の書類を差し出した。古い紙だ。何度も折り畳まれ、角が擦り切れている。
「これはベルントの資金移動の記録だ。私が十年かけて少しずつ集めた。一度に手に入れれば気づかれる。だから一枚ずつ、一行ずつ、十年間」
書類を受け取った手が、震えた。紙は黄ばみ、インクは褪せかけている。だが、そこに記された数字と名前は、すべてを覆す力を持っている。
十年間。一人で。敵のふりをしながら、証拠を集め続けていた。父がそうだったように、静かに、誰にも知られず。
「ハインリヒ顧問官。あなたは──」
「あんたの父に、約束したんだよ。もう父上も亡くなったが……約束は約束だ。果たせなかった約束は、ずっと重かった」
ハインリヒは背を向け、去っていった。
カスパルが物陰から現れた。すべて聞いていたのだろう。彼の表情は変わらなかったが、目の奥に何かが灯っていた。
「彼は本物のようですね」
「ええ……」
声が震えた。父の友人が、二十年間ずっと見守ってくれていた。何も言わず、敵を演じながら。
父が守れなかったものを、父の代わりに守ろうとしてくれた人がいた。知らないところで、見えない場所で。
カスパルが黙って隣に立った。何も言わなかった。
でも、その沈黙が、今はどんな言葉よりも心強かった。言葉がなくても、隣にいてくれる。それだけで十分だった。




